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ギブオンの夢枕 ②


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神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。 見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。…」
――


つい先日の話である。

私は近隣のよしみで、我が家の隣に住む老夫婦といっしょに、もう何年かぶりのゴルフに興じた。

ゴルフ場に来てみれば、「類は友を」という諺もかくや、いわゆる「団塊の世代」の老人たちのグループが一塊をなして待ち構えていた。そうして私は、彼らとともに半日以上、炎夏にあぶられながらチタン製のクラブを振りまわし、直径四センチほどのゴムボールを追いかけ回したのだった。

思う存分遊び回ったその後で、風呂に入り、大飯を喰らい、大酒を飲みくだした彼らの一人ひとりとは、いずれも頭のてっぺんから爪先まで真っ黒に日に焼けた容姿を笑い合いながら、互いの健脚ぶりや健啖ぶりやを、過去の栄光以上に自慢し合いつつ、彼らの子供のような若輩者の私に向かって、のたまったのだった――

すなわち、

「金、健康、時間、家族、友人のすべてが揃った老後生活」をば、気ずい気ままに謳歌している自分たちの人生哲学を、くり返しくり返し、さながら凱歌のように歌いあげてみせたのだった。


その時、私は笑った。

彼ら一人ひとりと共に、おおいに笑った。

そういう時に、心から笑うことを習い覚えてきた私がためには、それは息をするような習慣でしかなかった。

また、笑いとともにすべてを忘却のニルヴァーナの中へ流してしまえることも練習してきた私がためには、団塊の世代の元気いっぱいなご老人たちによる言動のすべてとは、なんという印象をば心に残すことのない、テレビ番組みたいな雑音にすぎなかったから。

ならばなぜ、こんな文章を書いているかといえば、

それはたとえば、「健康、金、時間、家族、友人のすべてが揃った福祉社会の確立」よりも、

「大義だ、正義だ、正義の開顕だ」のとうそぶいて、とち狂ったクーデターごっこに興じたあげく、割腹自決までしてみせたような不安な見栄っ張りの死に様なんかに、共感を覚えているからではけっしてない。

――だからこそ、私は「笑った」のだから。

日本の「戦後」とか、その「戦後」の立役者たる団塊の世代とかいう生物たちやを、正確なデータと、冷徹無比な事実の検証と、文学的な思考とをふんだんに用いつつ集約し、これまで誰もやったことのないような「文明論」としてあげつらってみせたみたところが、

戦後民主主義者を標ぼうし、世界文学のコンテクストとやらに媚を売りつづけ、世界でもっとも権威のある賞を額に押し頂いたくらいで有頂天になって、どこぞの国王の前で欣然と躍ってみせたような浅ましい思想家や、浅薄かつ軽薄な運動家や、無才のエセ小説家の書き連ねた冗文に如くものでも、けっしてない。

――それを知っているからこそ、私は笑ったのだから。

たとえ日本の「戦後」なるものが、私の天稟の想像力と洞察力とが私にむかって説き明かすよりも、さらにいっそう恥ずべき、忌むべき、唾棄すべき人間の生活様式であったとしても、

――そんな議論そのものが、最底辺の議論であることを知っているがそれゆえに、私は笑ったのだから…。


それゆえに、

はっきりと言っておくが、日本の「戦後」に限らず、「金、健康、時間、家族、友人」ばかりを追い求めているような、ありうるかぎりの人間の生き様に、私はいっさいの興味がない。

そんな生き様ばかりか、死に様にさえ、いかなる感動を伴う真実もなければ、記憶にとどめるべき真理もありはしない――けっしてけっして、ありはしない。

だから、それが近所に住む幸福なる老夫婦ばかりでなく、世界的な成功を勝ち誇るような企業家や、歴史上の偉人と称賛される輩のものであったとしても、彼らの生死にまつわる逸話挿話の数々を語り聞かされるのには、子供の頃からもうほとほとウンザリして来た。

ウンザリ以上に、右も左も分からない頃から、多量のヘドを吐き出して来た。

そんなヘドをすべて笑いに置き換えることが仕事であり、交際であり、方便であり、営業であった――だから私が笑ったのは、心の底の底から、「鼻で笑った」のだった。…


がしかし、

ここから先こそが、この文章の主眼となっていくのだが、

そんなヘドの出るような生き様や、鼻で笑うしかないようなありとあらゆる人間の営みが、それゆえにことごとく滅ぼし尽くされてしまえばいいとまで、私は思うものではない。

ただひとつ、

ただひとつ、絶対に滅ぼし尽くされるべき対象だと、固く固く信じて、いささかも疑わないものがあるとしたらば、

それは、あたかも「自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めること」もしないようなフリをしていながら、

その実、他の誰よりも「金、健康、時間、家族、友人」といったシロモノの獲得と、保持と、継承とを執拗に、あくことなく、貪るがごとく追求しつづけている、とある集団のことである。

すなわち、

私がいつもいつも執拗に、あくことなく、貪るがごとくに批判してやまない、この世のユダヤ教だのキリスト教だのいう結社における、宗派だ教義だ神学だのいう罪の極みと、

そのような蝮の卵をかえして、人々に食べさせようとして売りさばき、あるいは潰させて中から毒蛇を飛び出させようと謀っている、祭司だ長老だレビ人だ神父だ牧師だ伝道師だ宣教師だ教徒だクリスチャンだのいう、蛇や蝮の子らの共同体のことである。

もうなんどもなんども、なんどもなんどもくり返して来たことと重複するのだが、

ここでも、わたしの神イエス・キリストと、父なる神に言えと言われたままに、はっきりと言っておく、

上に並べたような手合どもとは、「イエス・キリスト」を宣べ伝えるようなフリをしながら、てめぇの宗派だ教義だ神学だ教会だのいうものを売りさばいている詐欺師であり、強盗であり、人殺しであり、奴隷商人であり、死の商人であり、

それゆえに、いっぺんの憐れみもかけられることなくことごとく滅ぼし尽くされるべき運命の下にある、生粋の「滅びの子」らである。

――違うと言うのならば、この私をしてこんなことを言わしめているわたしの神イエス・キリストに向かって言うがいい。

少なくとも、私は以下のような教会しか、実際に見聞したためしがない。

すなわち、まじめに勉強し、大学へ入り、労働にいそしみ、給料を稼ぎ、怠ることなく教会に十一献金をけ続なさい、それがすなわち、キリストの道であるからと、そのように子供たちを教え、洗脳しているような教会以外の教会に、私は子供の頃から、国内外において足を踏み入れたことがない。

それゆえに、彼らの宗派は神学は教義は――真理でも真実でも正統でもなんでもない――ただただそれがための宗派で神学で教義であり、

バプテスマもご多分に漏れずにそうであり、

礼拝であれ賛美であれ奉仕であれ伝道であれ宣教であれなんであれ、すべてなべておしなべて、自分と自分の教会の構成員たちの「金、健康、時間、家族、友人」を獲得維持保全するための、純然たる「商売」でしかなった。

――違うと言うのならば、なんの救いにもならず、イエス・キリストのものだというしるしにもなりえない、「ガキの水遊びにも見劣るバプテスマ」をば今日もまた売りさばいているその行為について、いったいいかなる弁明が成り立つというのか、この私に向かってではなく、こんなことを私に書かせているわたしの神父なる神に向かって言うがいい。


それゆえに、

私は、この世に張り巡らされたユダヤ教だのキリスト教だのいう蜘蛛の巣について、「鼻で笑って済ます」ことができないのである。

それゆえに、この世のありうる限りの宗派だ教義だ神学だ教会だのいうシロモノとは、ことごとく滅ぼし尽くされるべき「神と人の敵」であると、吐き捨てることをやめられないのである。

それゆえに、祭司だ長老だレビ人だ神父だ牧師だ伝道師だ宣教師だ教徒だクリスチャンだのいう構成員たちとは、いっぺんの憐れみもかけられることなくことごとく滅ぼし尽くされることがすでに決定した、「天上の悪の霊」のその三下どもであると、、、ああ、私はあと何度、糾弾すればいいのだろうか――。


わたしの神イエス・キリストと、父なる神から与えられた「信仰」が、ひねもす、私の心の中で燃え上り、骨々の中で燃えさかっている。

それゆえにそれゆえに、

もしも今日、

何事でも願うがよい、あなたに与えよう、

と言われたならば、

私はまずもって、上述したようなこの世の教会という教会をば、ことごとく滅ぼし尽くして、永久にこの地上から絶ってくださいと、わたしの神イエス・キリストと父なる神に向かって、大々的に願い求めてやろうか…!

これは多少余談になるが、世が世なら、あるいは私はそうしていたかもしれない。

もしも、主なる神がこの世のユダヤ教だのキリスト教だのいう敵を、私の「手に渡してくださった」ならば、さながらヨシュアのように剣を振りかざし、いっぺんの憐れみもかけることなく、ことごとく滅ぼし尽くしていたに違いない。

がしかし、

私の生きる現代とは、モーセやヨシュアの時代とは異っており、この私は戦士でもなければ勇士でもない。

指揮をくだすべきは軍隊おろか、一本の剣すら私には与えらえていないのだから、そんな「敵の命を求める」ような、私に似げない希求などには関心がない。

もっと言えば、

一本の剣も、指揮すべき軍隊も与えられていない代わりに、

「蛇よ、蝮の子らよ、お前たちはどうして地獄の罰を免れえようか」というイエスの言葉を私は聞き、

「裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済む」という神の言葉も、

「倒れた、バビロンは倒れた」という預言も、

信仰によって聞き及び、しかと心に留めている。

すなわち、

この世のユダヤ教だのキリスト教だのいう「バビロン」とは、イエス・キリストの十字架の死と復活とによって、すでにもって裁かれているということを、私は信仰によって知っているのである。


だからこそ、

わたしの永遠の伴侶イエスもまた、「蛇よ、蝮の子よ…」と言ってみずから糾弾したファリサイ人や律法学者たちやを――すなわち、時の偽預言者や偽りのユダヤ人らを――ヨシュアがヨルダンの向こう側でしたように、剣にかけたり、町に火を放ったりして、ことごとく滅ぼし尽くしたりしなかった。

そんなことを、父なる神に祈り求めたりもしなかった。

それゆえに――


何事でも願うがよい、あなたに与えよう、

この言葉に対する私の回答とは、いったい何であろうか。




つづく・・・



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