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銀と賄賂


――
また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
――



私の主張は、はっきりしている。

「切り傷にすぎない割礼」のように、「水に沈めただけの教会のバプテスマ」なんぞが、いかなる救いになるはずもなく、しるしになり得るはずもない(その意味において言えば、教会のバプテスマなど肉の割礼以下である)。

こんなことは、「からし種ひと粒ほどの信仰」があれば、その者のいかなる無知無学無教養無教育の者であったとしても、はっきりとはっきりとはっきりと「分かる」はずである。

ここまでに簡単な、明白な、瞭然とした真実が「分からない」人間たちtpは、ただのバカであるからばかりでなく、とりもなおさず、「からし種ひと粒ほどの信仰」も無いからである。

かてて加えて、人としてまっとうなる知性はおろか、まっとうなる良心というものにいたってなお完全に欠落しているがそれゆえに、「分からない」のである。

私の主張は、一貫している。

からし種ひと粒ほどの信仰も無きままに、無意味にして毒性の「教会のバプテスマ」たる大嘘をば世界中にまきちらし、「これが救いだ、これが救いだ」と触れ散らかしては、 無垢の人々から「献金」をせしめとる行為とは、人と神に対する純度百パーセントの罪であり、それも「死に至る罪」である。

そういう人間が偽預言者であり、偽りのユダヤ人でなくてなんであろうか。悪徳な宗教ビジネスを営んで、私腹を肥やしている詐欺師、強盗、匪賊の類でなくてなんであろうか。

さりながら、「からし種ひと粒ほどの信仰」も無ければ、神が知性も良心も貸し与えなかったダチョウのごとき愚か者どもにおいては、 そのような己が本性に、気がつくことがない。

偽りの、嘘の、無意味の、毒性の、愚の、罪の「教会のバプテスマ」を売りさばきながら、あたかも神の御心を行っているようなその醜悪なかんばせを鏡で見つめて、胸を痛めることもけっしてない。

かの日に至るその時まで、彼らは永遠に悟らない。なぜとならば、くり返しになるが、彼らのためには神の知恵であるところの「信仰」をば、からし種ひと粒ほども与えられていないからである。

「祈りの家を強盗の巣にした」とは、まさにまさしく、こういう行為のことを指して言っている。 「蛇よ、蝮の子らよ…」とは疑いも間違いもなく、こういう連中のことを指して確言されたのである。

それゆえに、私の主張は明確である。

彼らはことごとく、「すでに裁かれている」

「バビロンは倒れた」という神の言葉ひとつを取り上げてみても、 彼らには、永遠の滅びという欠けるところなき神の言葉と、文句なしの神の裁きとが待ち受けているばかりである。

「行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
この民の心をかたくなにし
耳を鈍く、目を暗くせよ。
目で見ることなく、耳で聞くことなく
その心で理解することなく
悔い改めていやされることのないために」

――このように、すべての偽預言者たち、偽りのユダヤ人たちとは、各時代において、すでに裁かれているのである。


裁かれていないようで、すでに裁かれている。

これは神は見ていないようで、すべてを見ているのと、まったく同じである。

神はバカなようでバカではなく、弱いようではなはだ強く、最低最悪のようで最高最良の神であり、

イエスはキリストではないようでキリストはイエスでしかないのと、まったく同じである。

わたしは、神から与えられたからし種ひと粒ほどの信仰によって、彼らがすでに裁かれていること知り、それを確信する、希少なる「残りの者」の一人である。

「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる」

――この神の言葉が示唆する「残りの者」こそが、わたしである。

あーめんだ、はれるやだ、しゃろーむだと、かの山頂のバカ踊りよりも劣等なダンスにひねもす明け暮れて、人々に不幸をもたらすバッタもんの福音をまき散らし、偽りのバプテスマで金と生き血をだまし取り、そのようにして「バビロン」において贅沢に暮らしている偽預言者や偽りのユダヤ人たちこそが、「海辺の砂のようなイスラエルの子ら」であり、「すでに裁かれている者」であり、「滅びの子ら」である。

かの日にあって、彼らがそれに気がついても時すでに遅しである。

くり返しになるが、彼らはすでに裁かれているのだから。

裁かれていないようで裁かれている――これこそが、「イエス・キリストの十字架」に隠されて、信仰を与えられた者だけに明かされる「奥義」のひとつなのだ…!



だから、

私の信仰は、はっきりしている。

二千年前の今日この頃、イエスはなぜ、死ななければならなかったか、

キリストはなぜ、トーラー研究の第一人者であるところのユダヤ人たちの手によって殺されなければならなかったのか、

神学校なんぞの机の上で、聖書を一生懸命にお勉強いたしました――ぐらいの努力をもってしては、その奥義にはけっして至らない。

毎週教会に行って、毎日聖書を読んで、讃美歌を歌って、奉仕をがんばっております――そんな程度の甘ったれた汗や涙やをもってしては、「すでに裁かれている」という奥義も分からなければ、

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」も、

「父よ、我が霊を御手にゆだねます」も、

自分の身をもって悟ることがない。

「エロイ、エロイ…」も、「父よ、我が霊を御手に…」も、自分の人生において経験した者だけが、イエスを死者の中から復活させた父なる神の憐れみを、自分の身をもって「知る」ことができるのである。

イエス・キリストを通して、父なる神の憐れみを「知る」こと――これこそが、「イエス・キリストの十字架を生きる」ということであり、「キリスト・イエスの復活にあやかる」ということであり、「からし種ひと粒ほどの信仰を与えられる」ということなのだから…!


私の信仰は、明確である。

それは、「エロイ、エロイ、、」を体験し、「父よ、我が霊を御手に、、」をその身をもって知る者として、

たとえばこのわたしのように、「からし種ひと粒ほどの信仰を握りしめながら、神に見捨てられる日々を生き延びる」からである。

神に見捨てられた者だけが、キリストを死者の中から復活させた力が、父なる神の憐れみであることを、その身をもって「知る」に至るのである。

そして、たったこれしきの文章であっても、古今東西において、わたし以外のいったい誰が、このようにはっきりと、堂々と、大胆不敵に書き得たというのか――もしもそんな文章があるというならば、私の目睫に刃のごとく突きつけて、示してみせろ。

それゆえに、それゆえに、

イエス・キリストの名前と、父なる神の憐れみを知ってしまった以上、どうして「教会のバプテスマ」のような汚らわしき詐欺を人々に働いて、その対価として「献金」をせしめとったりする「大罪」を犯しえようぞ…!

ただただ、イエス・キリストも知らなければ、父なる神からも知られていない者だけが、自他に対して、神に対して、そんな「死に至る罪」を犯し続けることができるのである。

私の信仰は、一貫している。

信仰もなければ良心もないとは、イエス・キリストも知らないし父なる神からも知られていない、ということである。

イエス・キリストも知らないし、父なる神からも知られていない者だけが、「教会のバプテスマ」なぞいう大詐欺を臆面もなく、当然のごとく、神の御心のごとく働き続けることができるのである――「蛇よ、蝮の子らよ、お前たちがどうして地獄の罰を免れえようか」…!

けれども偽預言者は、偽りのユダヤ人は、このような自らの恥ずべき行いから離れることができない――霊的にも肉的にもけっして離れることができない。

この、離れられないという事実こそが、「すでに裁かれている」ということなのである――


それゆえに、それゆえに、

ああ、わたしの神、イエス・キリストよ、父なる神よ、もういい加減にしてもらいたい。

俺はいつまで、かかるバカとアホと蛇と蝮と闇と罪の子らによる「サタンの集い」たるユダヤ教だのキリスト教だの教会だの教義だのいうものについて、書かなければならないのか。

俺にはもっと高度な、高等な、高尚な文章を書かなければならない使命がある――その使命の遂行のために必要な名前を、確信を、才能を、技術を、内なる熱量を与えたのは、お前自身ではなかったか…!

お前が雨上がりに空に置くような美しい、佳美しい、須臾ではないとこしへの虹のような文章を俺に書けと、書いて亡き友のための「憐れみの器」とせよと「召し」を与えたのは、イエス・キリストであり、父なる神自身ではなかったか…!

聖別とはなんだ、

自らを聖別せよとはなんなのだ、

偽預言者や偽りのユダヤ人たちとはいっさいの、かそけき関わり合いさえ持つことをしない――バプテスマを売り物にしているような強盗の巣たる教会には、絶対に絶対に足を踏み入れない――

これではないのか。

これではまだ、お前は不満だというのか。


もしも、そんな単純な行為で済む話であれば、この世界でもっとも声高にユダヤ教だのキリスト教だの教会だの宗派だの教義だの神学だのクリスチャンだのいう世界をば、「大淫婦バビロン」だの、「滅ぼし尽くして神にささげるべきものを掠め取ったアカン」だのになぞらえているような私は、血反吐を吐くような苦しみを経ずに済んだはずだというのか。

私以上に「バビロン」や「アカン」と戦って来た我が友が死んだのは、「そのため」だったとでもいうのか。

聖別とはなんだ、

自らを聖別せよとはなんなのだ、

わたしの中に知らず知らずの内に染みついてしまったサタンの集いに属する者どもの悪臭を、徹底的に除き取ることか。

だから、お前は年端も行かぬころから私を荒野の中に引きずり回し、ようやっとそれも終わったかと思いきや、今度はヨルダンの向こう側の戦いに徴兵したというのか。

「血肉ではなく、天上の悪の霊」との戦いのためにこそ、なおいっそうにして、この私を坩堝の中でろ過し、精錬し、聖化し、純化して、混じり気のない金や銀やに生まれ変わらせたいと――

ああ、

かつて私の同胞たちはそんな混じり気のない心を握りしめた勇士として、空の彼方へ散っていったのだ。

私にも、そのような戦士となって戦えというのか――国のためでもなく、愛する家族のためでもなく、ほかのいかなる何かのためでも、自分のためでもなく、

ただただ神のため、イエス・キリストの名のために…!


「明日に備えて、自らを聖別せよ」

とは、そういう意味なのか。

「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」

とは、そういう意味なのか――


だったら、勝手にすればいい。

俺のかたわらには、インマヌエルのイエス・キリスト以外に、だれもいはしない。

葬りに行かせてほしいと思うような父もいなければ、いとまごいをさせてもらいたい家族もいない――なぜとならば、お前がみんな、俺から奪ってしまったのではなかったか…!

あまつさえ、俺から無二の友までも奪っておきながら――「もとよりすべては、お前のものではなかった」と……

ああ、それゆえに、勝手にしやがれ。

てめぇの好きなように、しやがれ。

いつもいつでもいつまでも、「王はいつでも望むままにふるまうのだから」というお前のそのはなはだしき悪しき性格は、思い切りぶんなぐってやりたいくらいに憎たらしい。

がしかし、「気短に王の前を立ち去ろうとする」ほど、私はもはや若くもなければ、もとよりバカでもない。

俺の心が、ほかのだれよりもお前のことを憎みに憎んでいるのは、お前自身がよく知っている。

俺の唇が、天地の創造主様で、全被造物の救い主様であらせられるところのイエス・キリストとその父なる神にむかって、バカだのアホだの死んでしまえだのと吐き散らして、へーきのへーざでいられるくらい汚れていることも、だれよりもよく知っている。

だが俺は、

この世の教会なんぞにたむろしているような、意志も良心ものーみそもプログラムされなかった「あーめんロボット」とは、母の胎内にいたころから決定的に違っている。

俺は無意志にアーメンもしなければ、無信仰に神の国を宣べ伝えるような戦争に徴兵されたりもしない。

俺は俺の意志でしか働かない――

もう一度言うが、俺を動かし、働かせ、戦わしめるものは、お前が俺に与えた俺の意志である…!

それゆえに、

もしも俺を動かしたかったならば、まずもって、俺の意志を動かしてみせろ…!

ユダヤ教だのキリスト教だの宗派だの教義だの神学だのにしがみついている「ザ・滅びのバカ」には、のーみそも心も理性も良心も無いように、そんな意志がない。いや、彼らにはなんにもありはしない――すべての源であるところの「信仰」が、からし種ひと粒ほども与えられていないのだから…!

しかしこの俺は、そうではない。

そうではないから、こんなふうに神に喧嘩を売るような文章であっても、ほかならぬ神にむかって恐れることもなく、臆することもなく、正々堂々と書き殴ってやれるのだ。

だから、はっきりと言っておく、

もしもそんなにもこの俺が欲しいのならば、「買う」ことだ。

もう一度言うが、こんな俺がどうしても欲しいというならば、「買う」ことだ。

「銀はすべてにこたえてくれる」とは、お前の言葉ではなかったのか。

「賄賂は贈り主にとって美しい宝石。 贈ればどこであろうと成功する」とは、まさにまさしく、お前の言葉ではなかったのか。

お前は俺以上に、俺の心の深みを知り、究めることができる唯一の存在である。

それゆえに、お前は俺の心が、たかが「銀」なんぞで変わるものではないことを、知っている。

たかだが「賄賂」なんぞをもってしてでは、俺の心が、いかようにも動くものではないことも、知っている。

しょせん紙屑にすぎない札束なんぞを、いくらうず高く我が目睫に積み上げられてみせられようとも、そんなものをもってしては俺の心は永久に買えないし、いかようにも買収できないことを、お前は誰よりもよく知っている。

それゆえに、

それがゆえにこそ、

俺は今日、「銀」だの「賄賂」だのと、お前に向かって言っているのだ…!

今日という日にあって、「明日のために備え、自らを聖別する」ためにこそ…!

もう一度言うが、

俺には葬りに行かせてほしいと思うような父もいなければ、いとまごいをさせてほしい家族もいはしない。

それでも、

それでもなお、天涯孤独の俺を徴兵したくば、「銀」に物を言わせることだ。お前が時たま天に置く完全無欠の虹のように、俺の懐に「賄賂」を置いてみせることだ。

かつてイエスが荒野において、「この世の繁栄なんかいらん」と言ったように、俺の心もまた、そんなフザケタものには絶対になびかないことをお前は知っている。

それは、俺の心には、今を生きるイエス・キリストの霊が強烈に息づいているからである。

それゆえに、そんな俺がどうして「銀」だの「賄賂」だのと、わざわざお前自身の言葉を引っ張り出してまでしつこく、しぶとく、執拗に交渉しているのか、お前には分かっているはずだ。

天涯の孤客が、

現し世の繁栄になどかそけき興味もない者が、

イエスなんざもう一万ぺんでもじゅーじかにかかっちまえだなどと、へーきのへーざでのたまえる者が、

イエスも父なる神も聖霊も、憎んでも憎んでもなお憎み足らないような者が、

憎み足らないからこそ、こんな文章を書き続けねばならないような者が、

書きながら、一銭の価値もなきような神の国の真実を追いかけ、探し求め、祈り続け、ついに尋ね当てて心から感動するような人間が、

空に置かれた須臾の虹を見つめ、その神の芸術に託された神の本当の思いに感じ入って、殺したいほど憎みつづける父なる神を賛美するような人間が、

イエス・キリストのように貧しく、みすぼらしく、弱弱しく、ケチ臭く、底意地もすこぶる悪く、性格も根性も心底もゆがみにゆがみ、ねじれにねじくれ曲がっているような神をば、ほかのいかなる神々よりも愛する人間が、

なにゆえに、

なにゆえに「銀」と「賄賂」を言い迫っているのか、

お前には、俺がこんな文章を書くまでもなく、書き出す前から、すべて、すべて、すべて、分かっているはずだ。


それゆえに、

答えてもらおう。

神の言葉をもって、答えてもらおう。

いつもいつも言っていることだが、「論じ合おうではないか」とは、お前自身の言葉なのだから…!



2023.8.20

もしも俺を動かしたかったならば、まずもって、俺の意志を動かしてみせろ…!

という私の言葉に対し、

わたしの神イエス・キリストは、『雨あがりて』という文章を書かせることで答えてみせた。

分かっていたことではあるが、論じ合おうではないか、という言葉の通り、神と論じ合うことは、神の望みである。

それゆえに、私はこれからも執拗に、執拗に、執拗に、執拗に、わたしの神であるところの父なる神と、論じ合うことを事とするものである。

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