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国語の問題|文学のエコロジー

誰もが書くことのとできる時代に文章は多様化しています。一方で国語力の低下を嘆く声もあがる背景には何があるのでしょうか。夏目漱石の文学論を参照し、どう書くのか、どう読むのかを掘り下げてみれば、ここにもAI対人間の構図が生まれてくると思うのです。

 少子化が進むにもかかわらず、来年は過去最高の希望者数が見込まれるほどに過熱する中学受験。受かってしまえば間違いなく将来の可能性が広がる、特に最難関校においては一体どんな出題がなされるのだろうか。受験塾の講師先生の話が興味深かった。国語の長文読解に登場する主人公は親を失っていたり、ひどく貧しかったりすることが定石なのだとか。あるいは一昔前の話であるとか、地方の話であるとか、いわゆるその学校を受験する子どもたちが想像もできないような境遇が描かれることが多いのだそうだ。なるほど、今の時代、自分とは違う世界に暮らし、立場の違う他者の気持ちを汲み取る共感力が試されているのかと思うと、どうやらそうも単純なことではないらしい。小さい頃から本が好きで、想像力を育んできた子どもほど、高得点が取れないという。国語の問題は読み手の感想を問うているわけではない。一文一文の意図を正確に読み取って、論理的に登場人物の感情を導き出す読解力が必要なのだ。

 これを聞いて、文筆家・山本貴光氏の著書『文学のエコロジー』(講談社、2023)を思い出した。大学で教鞭もとる著者は夏目漱石による文学の定義(F+f)、すなわち認識(F)と感情(f)という二つの要素が文芸作品を成立させるという論を土台にして、本の読み方を探っていく。それは頭の中に作品内世界を描き出し、登場人物(必ずしも人間とは限らない)を1コマずつ動かしていく行為。もしもコンピューターの中でシミュレーションするならば、と仮定する山本氏の視点が独特だ。文芸作品にはわざわざ表現されていないことが多い。いや、むしろ殆どが省略されている。しかし、例えば「りんごが木から落ちた」という記述に、まさか重力加速度が定義されていないから情景が浮かばないという人は少ないだろう。反対に、書かれていることは全てが着目すべき語り手(主人公であることも多い)の認識であって、登場人物の感情に作用するものなのだ。

 実際、舞台設定を詳細に記述することを好むバルザックの作品であっても、それを図示しようと試みると矛盾に直面するらしい。だからと言って、これが駄作だと断じられるはずもなく、本質は読み手に何を訴えるかにあるだろう。山本氏は「文学の作用」を「読む者に物語というかたちで世界についての見方を与え、また、さまざまな感情を喚起する」ことに加えて、「そこに記された作品内世界を、自分の体を使ってシミュレート」させることだと述べる。これは傘を持ち歩くことに喩えられる。いつ降るか分からない、どんなものかも分からない雨に備えて、心に傘を持つ。そのためには、一文一文を正確に解釈しないと意味がない。知らない世界だからこそ、固定観念にとらわれずに正しく認識する必要があるのだ。中学入試ではまさにこの能力が問われているのだろう。独りよがりな共感ほど厄介なものはないのだから。

 これからは特に生成AIが世界を複雑化させる。ChatGPTを使ったことがある人は、『文学のエコロジー』において、「老人と海」の老人こと、サンチャゴがインタビューに答えるという創作がAIによるトリックだとすぐに気付くだろう。今のChatGPTは特徴的な日本語を話す。そして自身がAIであることをたびたび主張する。山本氏によれば、原作には書かれていないことまでも想像を膨らませて回答するようだ。そう、ChatGPTは「老人と海」を正しく読んで理解しているわけではない。ちょっと詳しい友人かのように、世界中の論評をかき集めて、ごちゃ混ぜにして、まるで自分の解釈かのように述べてくれる。これはエンターテイメントとしては優れたものかも知れないけれど、文学としての本質を惑わせる行為だろう。読書が好きで自由に本を読める子どもが国語の問題を解けないことと重なる。両者を区別して捉える技量が求められる。また一方で夏目漱石による定義(F+f)に従うならば、AIが文学作品を創作することも難しくはないだろう。読書と国語とを分けて考えて、AIが入試問題を作っても良いのかもしれない。そうやって、ここにもAI対人間の構図が生まれる時は近いと思うのだ。

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