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37歳。兄の生きれなかった時間を生きる。

4年ほど前、私の兄は天国に旅立ちました。

がんでした。

私、実は兄のことが苦手だったんです。
頭が良くて、人望が厚く、中学生の頃は生徒会長も務めた兄。
有名大学を卒業して大手企業に就職、女子に取り合いにされていたらしい。

でもさ、妹に対する態度が辛辣なんですよ。
私は、まぁ勉強は普通に頑張れば普通くらいにはできるけど、兄ほど冴えわたった記憶力や計算能力がなったんです。
だから、そんな私に兄はよくキレてました。
賢すぎる兄を持った私は「ここはこうに決まってるだろ!」「はぁ?何言ってんの?」などと罵られる幼少期を過ごすことに。

兄のがんが再発して、お見舞いに頻回に行くことになった時は、使命感もあったけど、毎回ビクビク。過去のトラウマが自然と蘇ってしまうんです。

それでも、兄の入院する病院まで、私が一番近い距離に住んでいたので、割と何回も通いました。当時、下の子を妊娠していたので、電車とバスの往復は辛かったのを覚えています。

母や姉に「一緒に行こう!」と提案すると「なるべく1人にしたくないから、それぞれ行ける時に別々に行ってあげたいの!」と。

その時の兄はまだスープなら食べれたので、鶏と野菜を煮込んだスープを作ってパッキングし、カキーンと固まりながら兄の病院に届けていました。

兄が何も食べられなくなり、痛みも酷くなってきた頃、兄は地元の緩和ケアセンターに移動。地元に帰ったことと、私が切迫早産で長期入院になったことから、兄に会いに行く頻度はめっぽう減りました。

そして月日が流れ、次に会いにいったときには、兄は骨のように痩せてしまっていました。私は何も言えず……。もともと、兄を前にするとヘビに睨まれたカエル状態になるのを隠して平静を装っているのですが、その時はさらに固まっていました。

さらにショックなことが。
兄はベッドのリモコン操作もできなくなっていたんです。
どのボタンを押せばよいのか分からないのだそう。あんなにキレッキレに冴えわたる頭脳を持っていたあの人が、こんなになってしまうなんて……。
自宅に帰ってからも、一人落ち込んでいました。

それから程なくして、母から電話がかかってきました。
「もうあの子危なくて…一人じゃ堪えられないから来て欲しい」と。
夫に上の子と生まれたばかりの下の子を預けて、地元行きの電車に飛び乗る私。

緩和ケアセンターにつくと、もう意識がなく呼吸をしているだけの兄が寝ていました。

兄の様子をみた看護師によると「明け方には……」とのこと。
その日の夜は、兄を一人で逝かせないよう、交代で仮眠をとって兄のそばにいました。

子どもを産んだばかりの私は、数時間おきに搾乳もしなくてはなりません。

つまり、兄のそばにいる➡仮眠➡搾乳➡兄のそばに……を繰り替えすことに。

忙しかったですが、悲しい現実を目の当たりにしている最中で、搾乳は本来の自分の現実を思い出させてくれたように思います。

明け方、看護師さんの予告通り、兄は息をしなくなりました。
兄が37歳の誕生日を迎える数日前のことでした。

兄が亡くなった時、「病気になるってこういうことなんだ」と一瞬思いました。でもそれは違うのだと今では思います。
「病気とか関係なく、人は死ぬんです。誰だっていつそうなるかわからない。」

兄が亡くなった後、家族に向けた遺言的なノートをみつけました。

そこには概ねこんなことが書いてありました。


○○(私の本名)
優しいお前なら子ども達と一緒に幸せに生きていける。
幸せに。


私にあんなに辛辣にあたってきたくせに、私のことを優しいと思っていてくれたなんて思わなかった。怖がってごめんね。でもさ、兄が亡くなってしまって、こんな気持ちでどうやって幸せになっていいかわからないよ。

……そう思ってしまいました。

奇しくも火葬は兄の誕生日。
「あの子が産まれた日に、なんであの子を燃やさないといけないの……」と母は泣いていました。

コロナ前だったので、お葬式には親戚一同が集結。
そのうちの兄と年の近いいとこは、昔やんちゃで、勉強ができるタイプではなかったようです。それでも、健康に働いて家族を持っている。兄のお葬式にも健康的な顔付きで、自分の足で歩いて来ていました。
それがどんなに素晴らしいことか、これまで考えたことも無かったんです。

実は私、これまで子どもに優秀になって欲しいと思い、ドリルや教材をしこたま与えていました。それは、母が1人目の兄には気合を入れて兄が泣いても勉強を教え込んだという話を聞いたから。兄のように勉強ができて自由に自分の人生を歩んでいって欲しいと思ったからです。

でも、今ではそんな風に思えなくなりました。
兄は一人で何でもやってのけ、さらに優秀であるため、母は兄で苦労したことが無かったのだそう。でもそれは裏を返せば誰かに頼るのに慣れていないということ。兄は亡くなる前、母にこんなことを言っていたそうです。
「もっとみんなに相談していればよかった。治療も全部一人で決めたけど、もっとみんなに頼って考えていたら、再発だって防げたかもしれない。」

そんな話を聞いて、私は自然と考えが変わっていきました。

もちろん、子どもが望めばドリルでも教材でも与えています。
でも、勉強は困らない程度にできればいい。
それより、元気に好きなことに夢中になって過ごしてほしい。
欲を言えば、困ったら「助けて!」って自分の口で言えるようになってほしい。

今ではそう思うようになったんです。

兄が亡くなって4年。
下の子も今では4歳です。

そして今日、私は37歳になりました。

兄が生きれなかった37歳という年。
子ども達が元気に自分の好きなことをできるようにしてあげたい。
私自身も好きなことを思い切りして、家族との時間も大切にしたい。

そんな風に過ごすことが私の幸せなのかなって思っています。

人生、いつどうなるかは分からないけど、最後の瞬間まで、自分の思う幸せを貫きたいですね。

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