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知識は、どこまでが雑学で、どこからが教養なのか?

皆さんこんにちは、津島結武です。
今回は、雑学と教養についてお話ししていこうと思います。
皆さんは雑学はお好きでしょうか?
もしくは、教養をもつことに意義を感じていますか?

ワシはというと、教養にはあまり興味のない人間です。
むしろ、雑学チックな知識を収集するのに喜びを見いだしている人間でございます。

とはいっても、ワシが収集している知識はダークトライアドやFriends with Benefits(いわゆるセフレ)に関するものです。
そして、これらは学術的な資料から集めています。

そこでワシは疑問を抱きました。
「ワシが集めているのって雑学なのか、教養なのか?」

というわけで今回は、知識は、どこまでが雑学で、どこからが教養なのかを考察していきたいと思います。

雑学と教養の定義と違い

まずは、それぞれの定義について調べてみましょう。
ワシは偶然にも国語辞典を持っていなかったので、ネットで調べます(そのうち買いたいなぁといつも思っている……)。

雑学の意味

まずは雑学の定義を以下に示す。

①広い分野にわたっている雑多な知識。また、系統、組織立てて専門に研究してはいない知識や学問。
②種々の学問がまじりあった非正統的な学問。

精選版 日本国語大辞典

雑学の代表例として、太宰治のエピソードを挙げよう。

中原中也は酔うと太宰治の家に、真夜中にもかかわらず訪れた挙句「バーカバーカ」などと低俗な嫌がらせをしており、太宰も怒ればいいものを布団を引っ被って怯えて泣いていた。

【文豪たちの意外な秘話?】文豪の逸話下さい下さい是非下さい(12選)

これは太宰治と中原中也を巡る有名な逸話ですが、実は一次資料がありません(ワシの調べ方が悪いからかもしれませんが)。
つまり、このエピソードは系統立てて研究されていない雑学であるといえます。

教養の意味

次に教養の定義を見ていきましょう。

①(―する)教え育てること。教育。
②学問、知識などによって養われた品位。教育、勉学などによって蓄えられた能力、知識。文化に関する広い知識。

精選版 日本国語大辞典

教養の例を、また太宰治を用いて考えてみましょう。

彼は青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)の大地主の家に生まれました。
彼の作品は、人間の心理や堕落と退廃、人間である限り逃れられない穢れを真正面から見据え、時にユーモアを交えながら克明に描いています。
その作風から、彼は坂口安吾、織田作之助、石川淳、檀一雄らとともに新戯作派無頼派と称されました。
彼の代表作には、『走れメロス』、『斜陽』、『人間失格』などがあります。
『斜陽』は、第二次世界大戦後、没落していく上流階級の姿を主人公・かず子の視点で描いた作品で、新たな意味が定着した言葉として社会に影響を与えました。
しかし、彼の私生活は退廃と堕落に満ちており、「左翼活動への傾倒と挫折」「愛人との退廃的な生活」「度重なる自殺未遂」「薬物中毒」など、スキャンダラスなエピソードには事欠きませんでした。
彼が書いた最後の完結作となった『人間失格』が「太宰自身の自伝的小説」だとささやかれるあたり、その人間性が垣間見えます。
(一部、こちらから引用)

このように教養レベルになると文章が長くなりがちです。
しかし、これらは歴史と文化的な評価に基づいた記述であり、体系的であるといえます。

雑学と教養の違い

さて、以上の定義を踏まえると、雑学と教養の違いは以下のようにまとめられる。

これを視覚的に表現すると、雑学とは広く散らばる点のようなものであり、教養は一つの点を中心に広がる円のようなものといえるかもしれません。
ただし、この分類はやや曖昧な気がします。
たとえば、ワシがよく調べているセフレについての研究は、系統立てられていますが、ワシの専門ではありません。
ただし、専門家にとっては文字通り専門的に研究しているものであるため、それは教養です。
つまり、雑学か教養かの分類は、個人の立場によるものであり、一般化できるものではないと言えます。

そもそも雑学か教養かの二分化は正しいのか?

しかし、ワシの趣味的な調べものであっても、それには体系に基づくものであり、単に雑学であるわけではないと思われます。
つまり、知識というのは、雑学か教養かに二分されるものではなく、雑学の要素があるか、教養の要素があるかという視点で捉えられるべきだといえるのではないでしょうか。

なぜ雑学が批判されがちなのか?

雑学はしばしば人を批判する際に用いられる言葉です。
たとえば、「お前が学んでいると言っているものは単なる雑学でしかない」というふうに、いわゆる雑学を集めている人は批判されがちです。
それは中身を伴っているかどうかで判断されているのだと思います。
つまり、学んでいるものが教養的であるかという視点が知識の質の評価を左右します

雑学から脱するには?

では雑学から脱するにはどうすればいいかというと、単にその知識に教養の要素を取り入れられたらいいのだと思います。
ここでワシが考える教養の要素は以下の3つです。
①体系性、②常識性、③利便性

①体系性

ワシが言う体系性とは、その知識が秩序立っており、整理・組織化されているかを示します。
たとえば、中原中也が太宰治に対して罵倒していたという話だけでは、あまりにも焦点的であり、組織化されているとは言えません。
これを組織化するには、そのエピソードがどの文献で言及されているかを知る必要があります。
また、太宰治一人を語るにおいても、彼がいつ生まれ、どのような人物で、どのような作品を残し、社会にどのような影響を与えたかを知っておく必要があります。
このように、教養は一つの事象を複数の視点から記述するという意味で、体系的であることが一つの要素だと言えます。

②常識性

第二に、常識性とは、その知識がどれだけ一般的に存在しているかということを指します。
たとえば、義務教育で習う事柄全般がそうだと言えます。
ワシたちは常識的な教養として、常用漢字は読み書きでき、四則演算ができ、原子の結びつき方がわかり、日本を統一した武将の名前がわかります。
これは一般教養と言い換えることもできます。
このように、その知識がどの程度一般的かも教養の一要素と言えます。

③利便性

最後に、利便性とはその知識がどれだけ役に立つかという視点です。
これは単純な話で、インターネットリテラシーやメールの送り方などがこれに該当します。
自己啓発本に書かれている内容もこの教養に該当するでしょう。
また、仕事で覚えさせられるノウハウなどもこれに該当すると思います。

これらの要素の一つでも当てはまる知識が教養と言えるのではないでしょうか。
たとえば、私が調査しているダークトライアドは、常識的でも役に立つわけでもありません(と言ったら偉い人に怒られるかもしれませんが)。
しかし、その捉え方は体系的であるため、教養の一つだと言えます。

教養の何が良いのか?

さて、そうなると、雑学と教養の本質的な違いとは何でしょうか?
これら二つの語が区別され、優劣がつけられているからには、教養には何かしらの機能があると考えられます。
ここで注意すべき点は、その知識がどのように機能するかで考えてしまうと、利便性の視点に囚われてしまうことになります。
重要なのは要素で考えることです。
つまり、その知識が体系的であること、常識的であることに、どのような意味があるのか、を考える必要があります。
利便性に関しては考える必要はありません(役に立つものは役に立つのですから)。

体系的であることに何の意味があるのか?

知識が体系的であると、それと同じような枠組みの考え方を他の事象に一般化させることができます
たとえば、ワシが調べているダークトライアドを理解するには、それがどのようなものなのか、他の特性にどのような影響を与えるのか、行動にどのような影響を与えるのか、といった視点で捉える必要があります。
このようなことを調査していると、自然とこのような物事の捉え方が身についてきます。
つまり、同じような捉え方を他の概念等でも適用することができます。
これを簡単に「視野を広げる」と言えます。
つまり、体系的な知識をもつということは、それを体系化するための技術を身につけるということでもあるのです。

常識的であることに何の意味があるのか?

常識的な知識をもっているかどうかは、その人の価値を見定める指標になります
知識によって評価される価値が変わるというのは、社会倫理としてどうかと思う人もいるかもしれませんが、それは現実的にも役に立つ見方なのです。
ワシたちは無意識的に相手が常識をもっているかどうかで、その人が信頼できるかどうかを判断します
たとえば、その人が読めないほど汚い字を書く人だったらどうでしょう。
ワシたちは、「この人は粗雑な人間なのだ」と判断します。
また、九九ができない人を見ても、「この人は小学生の頃からしっかりと勉強してこなかったのだ」と判断してしまいます。
そして、「この人は何か問題を起こすかもしれない」と予測します。
つまり、常識性はリスクの少なさを示す指標でもあるわけです。

皆さんは中高生くらいの頃に以下のような画像をTwitter(現X)で見たことがあるかと思います。

https://buzzmag.jp/archives/56436

このような画像に騙されて勉強しないようになると、大人になったときに「こいつはろくに勉強もできないろくでなし」と低評価されます。
それくらい常識ないし一般教養は重要なんです。

まとめ

雑学とは、「広い分野にわたる雑多な知識」や「系統的に研究されていない知識」を指す一方で、教養とは、「教育によって養われた品位」や「文化に関する広い知識」を指します。
ただし、知識は雑学と教養に二分されるものではなく、それぞれの要素があるかどうかで捉えられるべきです。
教養の要素として体系性常識性利便性を挙げられ、これらの要素が一つでも当てはまる知識が教養と言えるでしょう。
雑学と教養の本質的な違いはその知識がどのように機能するかではなく、その知識が体系的であること、常識的であることにどのような意味があるのかを考えるべきです。
体系的な知識は視野を広げ、常識的な知識は人の価値を見定める指標になります

本稿では結局雑学を否定するような内容になってしまいましたが、もちろん雑学にも良い面はあると思っています。
たとえば、水生生物に関する雑学があれば、水族館のデートのときに面白い話を繰り広げることができますよね。
また、雑学は子どもが物事を学ぶきっかけになると思っています。
たとえば、『ざんねんないきもの事典』は、子どもたちが生物に興味をもつための雑学本だと思います。
そういう意味で雑学には意味があると思っています。
ただ、大人になったら教養が必要になるというだけで。

そんなわけで、皆さんも知識を雑学に終わらせず、時間をかけて本を読むなどして、知識を教養に昇華させましょうね~。


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