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城で喫茶する夏

日光から上にあがってゆくと会津若松に着く。
駅を出ると、赤べこの置き物が一匹。
とてつもなく地味に感じるが、それは日光東照宮の色彩がカオスであったためで、半時間も会津若松をうろうろすれば、次第に目が慣れて、田んぼの青さ、大きな倉の美しさ、その背にそびえる磐梯山の凛々しい姿に感激する。

そこにまた凛々しくあるのは鶴ヶ城。
同じ名前の城が別の県にもあるので地元以外では若松城と呼ばれているらしいが、この城を築いた蒲生氏郷がもううじさとが鶴ヶ城と名付けたというのだから鶴ヶ城である。

自然石の天才的組み方。

蒲生氏郷は、茶の湯を大成した千利休せんのりきゅうの高弟(特にすぐれた弟子)として「利休七哲りきゅうしちてつ」の筆頭に挙げられる武将である。利休七哲とは、利休が集めた七人の侍‥ではなく、後世の人が利休のセンスと思想を受け継いでいる七人を勝手に選び、そう呼んでいるのである。

にしても、千利休ってもともと堺の商人ですよね。信長とか秀吉に茶の湯の師匠として仕えてた人ですよね。会津藩主がどうして千利休の高弟なんですか。どう考えても地理的に遠いですよね。

という心のつぶやきと共に、売店で買った「蒲生氏郷」の冊子をめくる。一冊五百円の教科書風の作りの冊子である。

蒲生氏郷の生まれは近江(現在の滋賀県)。少年時代に織田信長のもとで人質として生活を送ったが、武人としての才能を認められ、信長の娘婿むすめむことなった。

ええええ。
これだけでもすごいが、本能寺の変で信長が討たれたのちは秀吉に仕え、順調に出世、伊勢松ヶ島12万石も拝領して松坂城を築いて、秀吉の小田原征伐に参陣している。無茶苦茶忙しい。

氏郷の妹「とら」は秀吉と結婚して「三条殿」になっているので、秀吉とも親戚。となれば千利休とも交流があって当然で、氏郷は文人としても優秀だったようである。氏郷の息子は徳川家康の娘と結婚しているので家康とも親戚である。

千利休の弟子つながりもあり、親しかったキリシタン大名、高山右近たかややまうこんのすすめで大阪で洗礼を受けた氏郷は「レオ」というクリスチャン・ネームも持っている。

というのが冊子をざっくり読んで理解した内容であった。この時代の武将たちと千利休との深い関わりは、古田織部を主人公にしたアニメ「へうげもの」を配信で一気見して知ったのだが、そういえば蒲生氏郷も出てきていたことを思い出した。

さて、そんな蒲生氏郷がなぜ会津藩主になったのかというと、ほぼ天下統一した秀吉がおこなった「奥州仕置」により、それまでの手柄を評価された氏郷が会津42万石を拝領したことによる。

氏郷にとっては、利休師匠から離れてしまうし東北には伊達政宗などめちゃ強でヤンチャなのがおるしはっきり言ってうれしくはなかったようであるが、東北地方のごたごたに何とか対応した後は、近江仕込みの経済感覚と、利休仕込みの茶人センスによってこの地にあたらしい文化を持ち込んだ。近江商人や松坂の職人たちも氏郷についてきて会津に移り住み、漆器などの工芸産業も発展していった。

そんな蒲生氏郷がそのまま城になったような、洗練された美しい鶴ヶ城の内部に入ると、まず石垣の内側が蔵になっているが、そこは洞窟に入った時のようにひんやりしている。エアコンなしでこの涼しさ。感動的である。

上の階は博物館のようになっていて、そこには歴代城主の兜(模造)も展示されている。なかでも蒲生氏郷の兜はさすがキリシタン大名、かっこよさのベクトルが他とは違う方を向いていた。

センス。


さて、氏郷のお茶師匠である千利休は、豊臣秀吉との関係に亀裂が入り、秀吉に切腹を命じられて天正19年2月28日に切腹。この時、氏郷は千家の断絶を回避するために利休の娘婿である少庵しょうあんを会津にかくまった。

簡単なことではない。氏郷がすぐれた武人だから、しかも会津の地にいたからこそ、できたことだと思う。

この時会津に建てられたと言われる茶室が「麟閣りんかく」として鶴ヶ城の敷地内に保存されている。

麟閣はサザエさんのエンディングに出てくるお家のようだった

利休切腹から3年後、氏郷と徳川家康のとりなしによって、少庵は秀吉から赦され、京にのぼって千家の復興に尽力する。そして少庵の息子宗旦の三人の息子たちによって表千家、裏千家、武者小路千家の三千家が再興されたのである。

麟閣の敷地内には、ちょっとした東屋があって、ここで抹茶をいただくことができる。暑い日だったので、氷の入った冷たい薄茶をお願いした。

私の隣には、小学生が五人、グループで座っていた。みんな、ノートを手に持っている。学校の研究授業で鶴ヶ城にきたようだった。

完全に同じタイミングで抹茶が運ばれ、同じタイミングで飲む私と小学生たち。
「にがっ」という子もおれば、「これが大人の味ってやつですかね」とセリフみたいなことを言う子もいた。

私は、お茶の先生に弟子入りした日のことを思い出していた。

「あんたのような由緒ある神社の神職が、そないに忙しそうに茶席にささっと入ってちょいちょいと床と釜にお辞儀して席に座るなんてしたらあかん。たとえ遅刻してきたとしても、床の掛け軸と花をしっかり見て、感想を言わなあかん。あんたの感想に値打ちがあるんや」

師匠と仰げる人に出会うのもまた才能だとすれば、私は蒲生氏郷と同じくらい、その才能があると思う。

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