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天平のパラソルひらく鹿せんべい * 奈良、興福寺と猿沢池

京都の寺町通りには骨董屋さんが軒を連ねている。こまごました茶道具や、仏教美術を扱っているお店もあれば、古い農具や弥生時代の土器を扱っているお店もある。

古いものと言っても、たとえば日本のどこかにあった小さな仏さまと、ヨーロッパ顔のガンダーラ仏では全く雰囲気が違うし、香炉ひとつとっても和物と唐物では趣が違う。

ずいぶん昔の、世界のどこかにあったものが、盗まれたり売り飛ばされたり港に着いたり海を渡ったりして日本に来て、骨董ぐるいの人たちの手から手へと渡り歩き、どういうわけか、今、自分の目の前にあると思うと、こんにちはよく来てくれましたという気持ちになる。すると骨董自体が走馬灯になって、ここにたどり着くまでの旅の道のりを見せてくれる。

寺町通りの、中国の骨董品を扱うお店に入ってみた時のこと。

私は中国の美術にも骨董にもまったく詳しくないので、「ああ、この雰囲気が大陸的だなあ」とか「珊瑚を使った彫刻・・いつか好きになったりすることがあるだろうか」などと極めてざっくりした感想を抱きながら眺めていた。

するとお店の男の人(三十代前半くらい)が、
「これは、ホクギのものです」
とソフトな感じで話しかけて下さったので、私は、「ホクギ?」と聞き返した。

するとお店の人は、
「日本人が天平(テンピョウ)って聞くとワナワナしてしまうみたいに、中国人も北魏(ホクギ)って聞くと『ファああああ』となります。そういう時代の物なので、(お値段が)高いです。」
と言って微笑んだ。

私は中国の歴史に疎すぎて、北魏がどのくらい古いのかわからなかったが、
お店の人の「ワナワナ」「ファああああ」の言い方で、それがどちらも「人を天にも昇る心地にさせるもの」という意味であることは理解できた。

そして、「北魏」もさることながら、日本人が「天平」と聞くとワナワナして舞い上がるということについては、激しく同意したのだった。


天平とは、奈良時代のうちの729年から749年までの元号である。この天平年間に、奈良の都は当時世界最先端だった唐の仏教と文化をばんばん取り入れることによって独特の貴族文化を生み出したので、私たちはこれを「天平文化」と呼び、尊んでいる。

みんなが大好きな阿修羅(アシュラ)像も、天平年間の傑作である。

六本の細く長い腕。すらりとした体。少年のようなつるんとした美顔に、何かを思い悩んでいるようにひそめた眉。1300年も前に作られた像なのに、わたしたちがまるで恋するように拝んでしまうその像は、奈良の興福寺の国宝館にいる。

国宝館、いつもは芋洗いのように混んでいるらしいが、コロナ禍のため空いているタイミングでじっくりと拝観することができた。

サンスクリット語のAsuraという発音がそのまま格好いい漢字名になった「阿修羅」は、インドの神話などに出てくる異教の神だ。

怒りや争いが好きな武闘派で、日本でいうと「荒ぶる神」とか「鬼」のような存在。同じようなインドの異教の神々と共に、仏教を護る八人の神「八部衆」の一神となった。興福寺の国宝館では他の七神と一緒に並んでいる。

(八部衆は)仏教の教えに基づいた神ではないので、その生い立ちや性格、また姿やかたちは様々に説かれ、複雑で不明な部分が多くあります。仏教に取り入れられてからも、異教の神の姿のまま表現されることが多いのです。

興福寺のホームページより

そんな異教の神が、日本という多神教の国に入ってくれば、その時代の人々が求める感じにアレンジされるのは想像にたやすい。イカツいはずの阿修羅も、天平マジックにかかると美しく悩む少年になってしまう。

ちなみに京都の三十三間堂にいる阿修羅像は、鎌倉時代の作で、顔がめちゃくちゃ恐い。口を開けて「喝!」と怒鳴っているように見える。


興福寺の国宝館でじっくり説明を読んで知ったが、興福寺の阿修羅など八部衆は、なんと木彫りではなく、麻布と漆でできているのだった。まず土で土台を作りその上から布を貼って形を作り、背中を数カ所切開して土台の土を取り出して、空洞になった中身に木組を入れて補強、布の表面には木の粉を混ぜた漆を塗って細かな表現を加えたもの。この脱活乾漆法は大陸から伝わったと言われるが、今では中国にも東南アジアにもこの方法で作られた仏像は残っていないと言う。

そんなことも踏まえて、また阿修羅をじっと見つめる。

腕が六本あるってどんな感じだろう。動画と音楽とテキストを同時に編集できるけど、その時、脳は同時にすべてを考えられるのだろうか。

眉のひそめかたが本当にリアルだな。

・・・すばらしく天平だな。

阿修羅を前にするとあまり多くの言葉が出てこない。
ただ自らが清まった気がする。

けっきょく一言で言えば「天平」なのだ。



「知ってるよ」と言われるかもしれないが、京都と奈良は、まったくちがう古都である。

京都は、いちいちすべてが美しい。侘びと寂びの美。古くてモダン。京都にいると、「美しく生きて美しく死にたい。」と思う。

私の友人に、東京で日常的に着物を着用しているSE職の男性がいて、彼は東京では見知らぬ人に着姿を褒められたりするのにも慣れっこだが、京都では恐ろしくて着物を着て歩けないと言う。

その恐ろしさの正体は一言ではいい尽くせないが、それに耐えて大化けしたよそ者の代表が千利休なのではないだろうか。だって千利休は大阪・堺の商人出身だから。とにかく京都は美しくて恐ろしい町だ。

一方、奈良は。
駅を降りた瞬間からおおらかな空気に包まれ、「あー。このまま昇天してもいいかなあー」と思う。王朝気分で、万葉集の歌人たちのように夢見心地で恋人のことを考えるのも、春日山の上で柿の葉寿司を食べてごろんとお昼寝をするのも自由。お尻に芝生がついたってかまわない。大きなお寺に大きな仏像。おみやげが天平風で、仏像グッズも豊富。悠久の時の流れに身を委ねていると、あっという間に夕日が沈む。と同時に、あちこちのお店も今日はおしまい。夜が早い町。

はっ。

鹿の存在を忘れるところだった。

「鹿なんて日本国中、山のほうに行けばどこにでもいるじゃないか」と思うかもしれない。たしかに、埼玉にも山のほうに鹿がいた。

でも、先進国のそこそこ大きな都市で、家畜でもない野生動物が、こんなにたくさん自由に歩き回っている、そして鹿の闊歩する範囲には大きな寺があり、たくさんの素晴らしい仏像がいる、鹿と仏の距離が近い、そんなのは奈良だけではないのか。

鹿は万葉集にも歌われているし、春日大社のシンボルでもある。仏教や唐の文化が入る前から日本にあった自然の景色で神の化身。そこにお寺が、あとから建った。興福寺周辺を歩くときに見る「鹿と寺の景色」は日本と唐の融合、すなわち「天平」なのだ。そして私たちもその「天平」の景色の中に入ることができるのだ。なんてすばらしいのだろう。

コロナ禍で奈良の観光客が激減した時、奈良公園の鹿たちが鹿せんべいを十分に食べられなくなって飢えるのではないかと心配になった人も多いのではないかと思う。

知らない人のために説明すると、鹿せんべいというのは人間が食べるものではなく鹿用のおせんべい。奈良公園を訪れる観光客が購入し、鹿に与えることによって鹿とのコミュニケーションをはかり、その収益の一部は鹿の保護に使われる。米ぬかと小麦だけでできている丸いおせんべいで、調味はされていない。

「鹿せんべいが鹿の主食ってわけじゃないんだから大丈夫ですよ」という意見は正しい。が、奈良公園の鹿たちは、鹿せんべいだけ食べているような気がしてならない。それは仙人が霞だけ食べて生きていたり、安倍晴明が菓子だけ食べていたりするイメージに似ている。

鹿せんべいを買って鹿にあげたことのある人ならわかるだろうが、鹿せんべい屋は奈良公園のあちこちに、パラソルをさして座っている。その鹿せんべい屋から、十枚くらいがひと束になっている鹿せんべいを買う。

そして振り向くと鹿がワンサカ自分に群がっている。あれ、鹿こんなにいたっけというぐらい鹿の数が増えている。もっと広いところに移動して鹿せんべいをあげようと思っても、「せんべいよこせ」と、どついてくる鹿の群れ。後ろの方の弱そうな鹿にあげようと思って手を伸ばしても、「よこせ、よこせ」と元気な鹿から背中や尻をどつかれる。やや襲撃されるような形で、あっという間に手に持っていた鹿せんべいはなくなる。

そんなにも鹿せんべいが好きなら、鹿はなぜ、鹿せんべい屋を襲撃しないのか。

鹿せんべい屋は、ただ単にパラソルの下に座っていて、そのパラソルに付属したテーブルには、鹿せんべいの束が何のセキュリティ対策もされず無造作に置かれている。たとえ一頭でも二頭でも、大人の鹿が襲撃すれば、鹿せんべいを簡単に奪い取ることが可能。

にも関わらず、鹿は、そのパラソルにお客が寄っていき、お金を出して、鹿せんべいを受け取るまで、どついてこない。ましてや、鹿せんべい屋を襲撃して鹿せんべいを奪い取ったりしていない。鹿せんべい屋が一度、鹿たちをしばいているのではないか、という疑惑も浮かんでくるが、そんな雰囲気もなさそうだ。

どう見ても、鹿が「購入」という概念を理解していて、鹿せんべいを購入した人にのみ、正当に鹿せんべいを要求しているように見える。どういう仕組みなのかわからないが、この不思議な感じもまた、奈良の天平感を構成する要素になっている。

興福寺の横に猿沢池がある。
その池のほとりに衣掛茶屋がある。
そこでうどんを食べることにした。
開け放った入り口からいい風が吹いてきて、店先ののれんをふうわり揺らしている。

私の席から、興福寺の大きな長い階段が見える。
店内がうすぐらいせいで、外の光が白く飛んで、五十二段があの世のもののように見える。

修学旅行の中学生が茶屋の外で4人、ノートを抱えたまま立っている。
制服の白いシャツと白い帽子が光を反射して眩しい。
茶屋のかき氷を持ち帰りするため、出来上がりを待っているのだろう。
うどんと同じ厨房で、機械が氷をかく音がしている。

中くらいの鹿がこっちにやってきて、茶屋の入り口手前で立ち止まった。
犬だったら、うどんのだし汁の匂いに惹かれて、ササササ、と小走りで店内に入ってくるところだが、鹿は、お店の中には入ってこない。入り口に並ぶ中学生をどつくわけでもなく、彼らの後ろにぴったりついている。

店先の看板には、かき氷の他に、「鹿せんべい」の文字もある。
鹿は、中学生が鹿せんべいを買うのかも知れぬと思い、彼らの後ろで静かに待機しているのだ。

中学生の一人がかき氷を手にすると、鹿はおもむろにきびすを返し、白い光の中に消えていった。
さすが神の使い。
武士は食わねど高楊枝だ。

うどんを食べ終わり、お茶を飲みながら、村上春樹の「パン屋再襲撃」の文庫本を適当にひらく。もう知ってる話だからどこから読んでも良いのだ。美食小説ではないのに、パンというワードを連発されるとパンが食べたくなってしまうから、あえてお腹がいっぱいの時に読む。

かつてパン屋を襲撃した青年は、法律事務所に勤め、普通の結婚生活を送っている。耐え難いほどの空腹に襲われた夜、妻にパン屋襲撃の過去を話すと、妻が、その呪いを解くためにもう一度パン屋を襲おうと言い出して、夜中の2時にパン屋を探して東京の街を彷徨う。そんな時間帯にパン屋が営業しているわけがないので、彼らは妥協してマクドナルドを襲うことにする。

かつて一度だけ鹿せんべい屋を襲ったことのある青年の鹿。
今は普通に奈良公園で結婚生活を送っている。
立秋の晩、彼は耐え難い空腹に襲われて、つい鹿せんべい屋襲撃の過去を妻に話してしまう。
月あかりの下で、雄と雌の鹿が、鹿せんべい屋を襲撃する計画を練っている。

猿沢池のほとりでうどんを食べた女の頭の中で、パンと鹿せんべいが置き換わることは、さすがの村上春樹も想定してしていなかっただろうが、この設定には意外と無理がない。

衣掛茶屋は池にせり出すように建っていて、窓の外は池の水面が広がっている。
向こう岸にスターバックス。
先ほどの子らと同じ、白い制服の中学生たちがわらわらとその前に集合している。班行動が終わったらそこ集合なのだろう。

私は近眼なので、白い服の子たちが蜃気楼のようにぼやけて、神々が集まっているように見える。

スターバックスの入っている建物は、鉄筋コンクリートだが、なかなかに年季が入っていて、そのおかげでスタバも景色に溶け込んでいる。

グーグルマップで見るとそれは天平旅館という建物だった。

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