見出し画像

誰からも文句の来ない表現なんて②

(昨日の続き)

2025大阪万博の新しいマークが太陽の塔からインスパイアされたものだということを聞いたが、その後いろいろ思い出していて岡本太郎のこの言葉が浮かんで「これなんだな!」と思ったののでそれを書き留めておこう。

その言葉とは   芸術とは「なんだこれは」なのだ!

極めて不正確な引用だがこういったことを何度も言っている。芸術を表現と入れ替えてもいいと思う。「なんだこれは」という驚きのない表現は表現ではない。または「美しい」とか「心地いい」なんてものは表現の価値ではないとも言っている。

まさに太陽の塔がそれで1970年の日本で「人類の進歩と調和」と言っている中で空中未来都市を形どった大屋根を突き抜けて太陽の塔を作ると言った時に大屋根の設計者・丹下健三は激怒したらしいが岡本は構わずその案を通したという。そして今その’70EXPOの痕跡が残っているのはみんながその時「なんだこれは」と言った太陽の塔だけなのである。(この太陽の塔は万博終了後取り壊される予定だったのが小学生の投書で残されることになったとか上海万博をやった中国の若いエリートたちがどうやったら太陽の塔のようなシンボルを作れるのか必死に研究したとか数々のエピソードがある)

もう一つ岡本太郎のエピソードで好きなものがあるので一つ書き留めておく。ある時東京芸大に呼ばれて講演をした。終了後学生から手が上がり「芸術で食っていくのはどうしたらいいか?」と質問された。岡本太郎は「なんだお前、腹が減っているのか?どうしても腹が減って仕方なかったら俺の家を訪ねてこい。ライスカレーくらい食わせてやる」と答えた。

生きることとはイコール表現し続けることだ。そのことに関して全く迷いがなかったのだろう清々しいくらいに。
生きるためには食わなくてはならない。みんながそう思っている。その延長が経済性だ。食わなきゃ死んじゃうだろ?がいつの間にか「より良い飯を食うために」になってそれが豊かな生き方の根本だと思わされている。
食うなんてことは生きるための燃料だ。それよりも「生きる」そのものの価値を上げること。それが「表現し続ける」それこそが生きることそのものだと言い切ったのだ。

今コロナ禍で”生きる”ことが毎日取り沙汰されている。でもそれは「死なない」ことに入れ替わっているのかもしれないと思ったりする。
”生きる”ことそのものが「表現する」だったり「感情を揺さぶられる」だったり「人に対して優しくなる」だったりするのではないか?それらは腹が満ちてからやる不要不急のことなんかではなく生きることそのものなのではないかと思うのだ。

トランプ大統領が「アメリカファースト」と言い、経済面での成果と未来を約束することによって再選を目指している。しかしそこには他国と協力してより良い世界を作ろうという視点はなくあくまでビジネスマンとしての取引での実績で経済的優位性を勝ち取ると約束しているようにしか思えない。
「アメリカファースト」も「都民ファースト」も経済的利益だけを提示して支持を獲得しようとしているだけなのではないか?
飯を食うこと=経済的合理性を追い求めるよりも本当に意味での豊かな世界、豊かな生き方を求めるタイミングにあるのではないか?
そしてそれを気付かせてくれる表現のキーワードが「なんだこれは?」を生み出し続けることだと思うのだ。

自分がいたテレビ業界は「なんだこれは」を生み出し続けているだろうか?経済的合理性だけを追いかけていないだろうか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?