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「エッセイが好き」ではなくて、「好きなエッセイがある」。話

僕は小説とかエッセイとか、そういったものには詳しくないのだけれどエッセイというジャンルにも少しだけ好きな本がある。

今日はエッセイが好きだ、という話ではなくて、あくまで好きなエッセイがある、という話。

幸田文 『台所帖』より ”わらび”

 そのわらびを青くゆがいて、そろえて、まな板にのべると、私は息をつめるようにして、すかっと、寸法に切り、もう一度息をつめて、白く深い器に、すうっと、盛る。切り口に、ほんのわずかの歪みもないようにして。
 そしてほっとして、眺めて、満足して、頬がゆるんでしまう。

幸田文『台所帖』2009年 平凡社

何が好きか、と聞かれても正確には答えられないけれど、文章から伝わってくる台所の光景が「ああ、いいなあ」という気持ちにさせてくれる。
こんな料理を作ってみたい、食べてみたいと思いつつ、普段自分が一皿に向かう気持ちの適当さ、を思い知る。

堀辰雄 『大和路・信濃路』より ”十月”

 いま、唐招提寺の松林のなかで、これを書いている。けさ新薬師寺のあたりを歩きながら、「城門のくづれて馬酔木かな」という秋桜子の句などを口ずさんでいるうちに、急に矢も楯もたまらなくなって、此処に来てしまった。
 いま、秋の日が一ぱいに金堂や講堂にあたって、屋根瓦の上にも、丹の褪めなかった古い円柱にも、松の木の影が鮮やかに映っていた。此処こそは私たちのギリシアだ。
 そう、何か現世にこせこせしながら生きているのが厭になったら、いつでもいい、ここに来て、半日なりと過ごしていること。

堀辰雄『大和路・信濃路』 1955年 新潮社

実際に唐招提寺を訪れてみると、金堂に差し込む陽光、立ち並ぶ太い柱、凛とした空気が何とも言えない気持ちにさせてくれる。日ごろの悩みや考え事をわきにやって、ただその場と向き合う心地よさがそこにはある。


普段はビジネス書しか読まない僕にも、好きなエッセイがある。

じゃあエッセイをもっと読んでみようとは、どうにもならないけれど、いつかどこかで出会うかもしれない「好きなエッセイ」を心待ちにしようと思う。


ノートを読んでいただきありがとうございます。