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もう、スッピンで外を出歩けない。


そういえばうちには、冬物のイヤリングが少ない。


先日、10月に家族の用事があってイヤリングの箱を開けた時「久しぶりだな」と思ったのだ。

最後にイヤリングをつけたのはいつだっけ…
あぁ。夏に挨拶回りをした時だ。
あの時はイヤリングが派手だと注意を受けたんだっけ、

そしてその前は…
あぁ。4月5月のうちは大学にも毎日付けて行ってたっけ、

あの頃は是が非でもイヤリングがないといけないと思ってた。

落ち着かなかった、
お守りだった

でも、最近はつけて行かない。なんで?

ああそうか

言わば、私の中で「イヤリングをつける」という行為は「ちいさな武装」なのだ
大学生活に慣れて、「武装」する必要がなくなったんだ。



人は身につけるもので「武装」をする
それが服だったりアクセサリーだったり、メイクだったり様々だ。

そういえば、叔父の彼女と会食する時はバッチリメイクにしたし、(小姑?)
同窓会で久々に古い友人と会う時には服装に気を使う。
知らない人から電話がかかってきたら声が高くなる

はぁ。ダセェな

そんな自分をダサいとは思ってる、思ってるんだ。

思ってはいるけど、「ナメラレタクナイ」という弱き心が勝つのだ。

だから私はメイクもするし、服にも拘るし、アクセサリーもつける

もう、スッピンで外を出歩けない



でも、これが世の中の摂理なんじゃなかろうか

例えばオタクなら、
コスプレの完成度や痛バの大きさで自分がどれだけそのキャラクターを好きかを可視化するし

家の大きさや庭木の手入れ、庭先のイルミネーションの豪華さで家の経済力を可視化する

時代を遡れば、
城の大きさ、家来の多さ、葬式の盛大さ、墓(古墳)の大きさ、埴輪の多さ…ぁ、兵馬俑とかも?
とにかく「見た目」(第一印象)で大きく見せようと「武装」するのだ

でも、それはなんだか虚しい、理性的じゃない。


1948年の黒澤明監督作品『酔いどれ天使』をみた

三船敏郎演じる松永は「武装」している。

闇市を取り仕切るやくざ者の中でも兄貴分な松永
喧嘩っ早く、乱暴。もちろん格好は派手
(そして筋肉モリモリ男前!)
医者の眞田から結核と診断されても、それを受け入れないで眞田の胸ぐらを掴んで憤怒し、また飲み歩く。

戦争から生きて帰ってきても
景気が悪い、思うような生き方ができない

そんな戦後の世の中で自己を確立し、己を守るためには身を立てるよも「武装」をするほかない

作中で「病気に向き合うことは己と向き合うことだ、お前はそういうナリをして自分の弱さを隠しているだけだ」と医師の眞田は云う

松永は「武装」している。

では、いかにして「武装解除」するのか。

結局病気に牙を抜かれた松永は、付き合っていた女の女々しい部屋の中で衰弱していき、
闇市からも女からも、信じていたはずの親分からも捨てられて死ぬ


物質的に「武装解除」することになった松永にあるのは、小さな松永だけだった、
何も残っていなかった。

彼には精神的な「武装解除」が必要だったのだ。

彼には、「回復して真っ当な人生を送るべきだ」と手を差し伸べ続けた医師の眞田も
「私と一緒に田舎に帰って養生しましょうよ」と情けをかけてくれた酒屋の女もいた
しかし、松永はそれを受け付けなかった。



『酔いどれ天使』の時代‐モノがない時代に比べれば、現代はモノもカネもある時代だ。
明日の衣食住は保証されているし、基本的には社会の中で真っ当に生きている


しかし、私たちの「武装」は止まらない
より武装するために、常に新しい流行を追いかけてどんどんハリボテになっていく

実際、今これを書いている私が着ている服の殆どはファストファッションだし、
イヤリング箱の中のアクセサリーのほとんどは300円ショップのものだ
どちらも、新しいものが出ては買い、ダメになれば直ぐに手放す

いくら買ってもまだ足りない

だって新しいファッションは、新しい武装は常に出てくるから。

いつになったら私たちは「武装解除」できるんだろうか、

いやできまい

でもそのダサさが、「生きる」ということなんじゃなかろうか
生きているからこそダサいし、
生きてるからこそ「武装」する

カッコイイでしょ?
いつか死んだらその武装をひっぺがされて、皆に笑ってもらうのよ。

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