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ロス暴動

文字数:2653字

まえがき

 この話は実話だ。読めばそれが事実であることはすぐに分かっていただけると確信している。私はこの事実をどうしても伝えたかったのだ。それはアメリカの凄さを目の当たりにする暴動だからだ。すごさの一つは、人種差別の目も当てられないような現実だ。そしてもう一つは。その現実を差別する人たちに厳しい目を向けて何とか差別をなくそうとする人たちの存在だ。
 私に人種差別を語る資格はない。差別の問題を語る資格もない。差別をする人々を責める資格など、更にない。(これに関しては「差別をする」とのタイトルで書いた記事の最後に用いた文だ)

    わたしは、こう祈ります。知る力と行き抜く力とを身に着けて、
   あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分
   けられるように、そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめ
   られるところのない者となり、イエス・キリストによってあたえ
   っれる義の実を溢れるほどに受けて、神の栄光と誉れとを称える
   ことができるように    
               フィリピの信徒への手紙 1:9~11

1992年4月29日

 1992年4月29日に起こったロス暴動は、人によっては記憶が薄れているかもしれない。アメリカという大国が抱えている解決不能とも思える問題が露呈した事件だ。
 暴動を放映するTV番組は多く、私はそれらの映像を信じがたい気持ちで食い入るように見た。当時、8度にわたるアメリカ訪問で、アメリカの怖さも素晴らしさも多く見てきたつもりだったが、この事件はTVドラマのあらゆる暴力事件を飲みつくす凄さで満ち満ちていた。
 多くの残虐シーンの中でも私の心に焼き付いて離れなかった場面は、長髪の白人トラック運転手が引きずり出されて、若い黒人集団から殴るけるの暴行を受けているものだった。ついには1人がレンガを手にして彼に殴りかかっていた。そして運転手は瀕死の重傷を負ったのだ。
 白人警官たちによる黒人キング氏殴打事件、そしてその裁判に対する無罪評決に端を発したこの事件はアメリカ人のみならず世界中を震撼させる威力があった。私自身、ショックでしばし言葉を飲み込んだほどだ。
 私はこの運転手が長髪だったこともあって、女性ドライバーだと誤認していた。
 私がミシガン大学にいた時(1970年)に乗ったバスの運転手が女性だった。そのことに、新鮮な驚きとアメリカのパワーの一端を見た記憶が瞬時に思い起されたからだったかもしれない。この事件以来、私はこの運転手はどうなったのだろうと気にし続けた。しかし気にするだけで何の手掛かりもないまま忘れかけ、時折思い出す程度という記憶の風化現象が起こり始めていた。

元の生活

 1993年4月29日にTVのチャンネルをBS7に合わせた途端にあの場面が画面一杯に映し出された。私がその人を男性だと知ったのはこの時だ。ロス暴動の日付をはっきりメモ帳に記したのもこの時だ。そしてこの被害者がデニー氏だということを知ったのもこの時だ。
 彼の骨折箇所は96か所だとアナウンサーは報じていた。そして暴動から1年が経ったデニー氏が大きく映し出される。
 「最初はそりゃぁ相手に対する怒りで一杯だったさ。そしてあの暴動に対して怒ったものだよ。でも今は連中を恨んではいないさ」
 加害者は特定されて裁判が既に進行していたということを私は知った。
 デニー氏は穏やかな顔で話す。「連中を恨んではいないさ」という言葉に私はアメリカのパワーを見た。そのパワーは具体的には何か私には分からない。
 「本当に重要なことを見分けられる」パワーであるのかもしれない。
 「相手は迫害され続けてきたんだ。腕力を使うしか彼らのはけ口がなかっただけなんだ」
 「僕の今の願いはとにかく元の体に戻って、元の生活を取り戻すことだけさ」
 アメリカのTV局は、このデニー氏とのインタビューを拘置所に持ち込んでいる。加害者にそのビデオを見せるためだ。
 拘置所の20才になる犯人の1人はそれにじっと見入る。そして彼は一言ポツリとインタビューに答えている。
 「俺は彼に対して本当にすまないことをした」
 インタビューアーはその犯人とのインタビューのビデオをデニー氏に見せる。犯人に関する感想をいろいろと聞き出そうとする。
 「有罪になってほしいとか、そんなことはどうでもいいんだ。相手のことを考えるより、自分が元に戻ることのほうが今は重要なんだ」
 「こんなことが二度と起こらないような国にならなくっちゃぁ。世界が少しでも良くなるように自分がまず最初に何かを始めたいんだ。何かを始めなければいけないんだと僕は思っているんだ」
 デニー氏の口調は力強い。静かな語り方だ。その自然体の話し方に、私は不思議な力強さを感じ取る。

裁判の結果

 裁判の結果はどうなるのだろうと気にして、デニー氏の再登場を待つが、再びこの事件が私の中で風化を始めた頃のある日、同じBSの放送であの場面がまたも痛々しく放映されていた。
 実は結果を必ずキャッチすべく虚しく録画を続けていたのだ。そして録画の目的がデニー氏裁判の結果を知るためだということすら忘れかけていたのだ。
 画面のデニー氏は1992年4月29日と同じように髪を振り乱し、けとばされ、レンガで殴られ、打ち倒されて死んでしまったのではないかと思わせた。

「無罪」

 評決の結果に驚く。殴打に対しては有罪だが、殺人未遂に対する評決は無罪だ。犯人の1人が即時釈放される。釈然としない傍聴席の人々が映し出される。そして犯人の喜ぶ顔がアップで映し出された。
 陪審員たち、とくに陪審員長に対する厳しいインタビューが続く。
 そしてデニー氏だ。彼は相変わらず淡々とした対応だ。
 「早く元の生活に戻りたいわ」
 デニー氏の娘がデニー氏の気持ちを代弁するかのように笑顔で語る。
 人を許すということは口で言うほど簡単なことではない。
 デニー氏の静かな語り口は、この事件で私たちがどこに目を向けなければならないのかを示唆してくれている。彼は事件の最奥部見抜く力を持っているかのようだ。最奥部を見るために必要なものが何であるのかを暗示しているかに思える
 こそが物事の本質を見分けるレンズなのだと教えてくれている。デニー氏がクリスチャンであるか否かはここでは問題ではない。勿論神の栄光の世界に私たちの目を向けるには、キリストの十字架を通した愛がなければならない、と聖書は教えてくれている。





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