ニュージーランドで、「深夜特急」という名のカフェに出会った話
ミッドナイト・エクスプレスとは、トルコの刑務所に入れられた外国人受刑者たちの間の隠語である。脱獄することを、ミッドナイト・エクスプレスに乗る、と言ったのだ。
(沢木耕太郎『深夜特急』エピグラフ、新潮社)
旅をしていると、旅の神様から思わぬプレゼントを貰うことがある。
その夜、僕はニュージーランドのオークランドで、夕食をとる店を探していた。
ニュージーランド最大の都市とはいえ、オークランドは静かな街だった。
レストランの数も多くなく、まだ21時前だというのに、人通りも少ない。
僕はそのとき、オークランドのランドマークであるスカイタワーの近くの通りを、適当な店を探しながら歩いていた。
……そのときだった。
どこかで見た覚えのある「言葉」が、目に入った気がした。
あらためてよく見ると、それはカフェの名が記された看板で、そこにはこうあった。
「MIDNIGHT EXPRESS」
ミッドナイト・エクスプレス。すなわち、深夜特急。
思わず、自分の目を疑った。
ミッドナイト・エクスプレス!? この店は、いったいなんなのだろう。
沢木耕太郎氏の『深夜特急』と、なにか関係はあるのだろうか?
しかし、ニュージーランドのオークランドに、『深夜特急』と同じ名前をもつカフェがあるなんて話は、聞いたことがない。
その看板には、金枠に囲まれた黒地に、シックな白い書体で、「MIDNIGHT EXPRESS」と書かれている。
看板から受ける印象は、沢木氏の『深夜特急』がもつ雰囲気と、不思議なくらいにぴたりと重なる。
カフェの外壁も、モスクを思わせる青いタイル張りで、異国情緒が漂っている。
入り口から店内を覗くと、意外と中は広く、満席というほどではないが、たくさんの客で賑わっていた。
僕はいてもたってもいられなくなった。
このカフェに入る以外にはありえない、と思い、次の瞬間には、カフェの中に飛びこんでいた。
すぐにウェイターの女性が席へ案内してくれて、メニューを持ってきてくれた。
それを広げたとき、なるほど、と思った。
メニューには、ケバブをはじめとする地中海の料理の名前が並んでいた。
このカフェは、トルコ料理の店だったのだ。
沢木氏の『深夜特急』の、その美しいタイトルの着想を得たのが、『ミッドナイト・エクスプレス』という名のアメリカ映画だった。
トルコを舞台に、刑務所で獄中生活を送ることになった1人の若者を描いた映画だ。
その作品の中で、脱獄することの隠語として、「ミッドナイト・エクスプレスに乗る」という言葉が使われるのだ。
おそらく、このオークランドのカフェも、その映画から名前を付けたに違いなかった。
まさに沢木氏が、あのユーラシア横断の紀行文に、『深夜特急』という名前を付けたのと同じように。
やがてウェイターの女性が注文を取りにきたので、「チキンのグリル」と、「スタインラガー」という名のビールを頼んだ。
まもなく運ばれてきたビールを呑みながら、「MIDNIGHT EXPRESS」の店内を見回してみた。
どうやらこの夜の時間は、カフェというより、レストランになるらしい。
左隣のテーブルでは、老人から子供まで、10人くらいの大所帯が、仲むつまじく食事を楽しんでいる。
右隣のテーブルでは、韓国系の若者たちが、ビールやワインを空けながら、互いに笑い合っている。
木の温かみを感じさせる壁やテーブル、天井に輝く照明、手元で揺れるキャンドルの炎……。
ウェイターの女性の笑顔は優しく、まさに「MIDNIGHT EXPRESS」の名に相応しい、素敵なカフェだった。
しばらくして運ばれてきた「チキンのグリル」も、絶妙な味付けで、とても美味しかった。
それを口に運びながら、僕もまた、このカフェに巡り会えたことの幸せを感じていた。
沢木氏の『深夜特急』は、これまでに何度も何度も読んできた、大好きな本だった。
こうして異国の地を旅しているのも、『深夜特急』に出会えたからこそ、なのだ。
そしていま、とても不思議な偶然から、『深夜特急』と同じ名前をもつカフェで、夜の時間をひとり過ごしている……。
久しぶりに、心から幸せだと思える夜を、過ごせている気がした。
それにしても、旅の偶然って、ほんとうに不思議だ。
もしも僕が、ワンブロック別の道を歩いていたら、このカフェに巡り会うことはなかった。
たまたまこの道を歩いて、たまたまこのカフェの看板を見つけたから、いまこうして、「MIDNIGHT EXPRESS」で食事をしている……。
あるいは……、とちょっと感傷的になりながら、思った。
この「MIDNIGHT EXPRESS」との出会いは、『深夜特急』に憧れ続けてきた自分への、旅の神様からのささやかなプレゼントだったのかもしれないな、と。
旅の素晴らしさを、これからも伝えていきたいと思っています。記事のシェアや、フォローもお待ちしております。スキを頂けるだけでも嬉しいです!