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「淋しい」を紐解く② その正体に気づいた時の話(中)

清貧を盲信するようなところのある母の「健康的」な食生活の下で育った私は、常に「もう少し食べたい」という欲求がどこかにありました。その「口さみしさ」ゆえに、私は、盗み食いや買い食いをするようになりました。

隠れ食いは、一時の高揚にはなったのかもしれませんが、私はやっぱりいつまでも「口さみしい」子供でした。

根源的な「淋しさ」があったからです。

でも、それには、ついに何十年も本当の意味で気がついていませんでした。

高校の時、友人と放課後お菓子を食べるときなどは、いつも、私が一番多く買い、一番多く食べ、そして、一番最後まで食べていました。(体を動かしていなかったら、お相撲さんみたいな体型になってたことでしょう・・)

友人と外食するときは、いつも満腹にしてました。

大人になってからは、お酒を飲むときは、ほとんどいつも、自力で家に帰るのがやっとなくらいフラフラになるまで飲んでました。

そうやって、気づけば、何十年もずーーーーーーーっと、「満腹」になるまで食べてました。

むさぼってました。

そう、

むさぼってたんです。

食べ物も、お酒も、娯楽も、刺激も、人間関係も・・・

どんなに貪りたくても、手に入らなかったのもありました。
例えば、誠実でおだやかなボーイフレンド。
例えば、嬉々として没頭できる、充実感をくれる何か。
例えば、友人らとのかけがえのない学生時代の思い出とか絆とか。
例えば、例えば・・・

それは、きっと、愛されてるという確かな実感。
それをどっかに見つけて浸りたかったんだと思います。
それを与えてくれそうな、手っ取り早くて分かりやすい対象、それが、上記のようなもの、周囲の子が持ってる(ように見える)ものだったのでしょう。

だから、その片鱗と見るや、その対象が何であれ、常に「貪る態勢」でいたんだと思います。

当然、「貪り気質」は、たとえ自分に全く自覚がなくても、相手には瞬時に伝わります。

むしろ、無自覚であるがゆえに、だだ漏れです。

なので、当たり前ですが、内面が平和で満たされている人に配当されるようなご縁とか巡り合わせは、わたしには回ってきません。

そういう性質のエネルギーをまき散らしてる人間には、さらに飢餓感を煽るような「試練」しか与えられません。

謙虚に学んで、それらを「教訓」にできればいいのでしょうが、わたしの場合は、それでもそこから10年以上、何も学ばずに、自分の枯渇感は外的要因のせいだと信じてました。

何かが足りないから、淋しい・物足りないんだ、と信じて疑いませんでした。

さらに!
「Toxic Parent=毒親」という言葉を知ってからは、あんな親の元に生まれさえしなければ・・・とさらに自分の運命を呪いました。

貪るための美味しそうなネタが自分のところに降ってこないもんだから、恨みつらみ&妬み嫉みの化身でした。しかも、自覚ゼロ。

まさに、餓鬼です。

ーーー(後)に続きます。

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