見出し画像

冬と春とが重なる頃に

 北国の生まれと育ちをしても、結露をした窓を通してしまうと雪の様子がわからない。光の調子と、幹線道路の車通りばかり伝わってくるので、月日よりも時間が大きく思える。
 あたたかい薄暗さの喫茶店においては尚更で。2月末日の午後を僕は、優雅にアメリカンのお替わりなんてしながら、ローカルチェーンの窓際席で過ごしていた。

 10年間過ごした街の去り際に思う10回の冬々は、どれも一様に雪で閉ざされているようで、10通りの違ったハイライトを刻んでいた。
 何もないことすら物語にしてしまうのだから、街というのは、人よりも、社会よりも美しい。だから、停滞という言葉が最早染み付いてしまった日本のさらに地方都市のさらにベッドタウンのさらに団地街を、結局僕はいつまでも覚えているのだろう。それは、駅舎や図書館が新築されたからでも、今手に取っているマグカップがジョンレノン付だったからでもない。ひとえに、大麻もまた街であるから。
 例えば去年は、雪害による交通マヒが象徴的だったかもしれないが、それも所詮1面記事にすぎず…そう、 新聞!新聞が記事の集合体である以上に新聞であるのと同じく、街は何があってもなくても街である。言い換えるなら、空白の代わりに雪の白色があるだけの何もない冬に、むしろ街は一番、街らしい。

 シャラシャラシャラ、という解けかけの雪を踏むタイヤの音。つられて窓の方を見る。依然として水滴のモザイクに覆われているものの、日の沈むのがずいぶん遅くなったな、と思えるほどには光度がはっきりしている。ハエトリグモでも共感できる程度の、季節観。
 席は埋まりはしないものの1組、また1組と入れ替わり、立ち替わり。少し後にまた、シャラシャラシャラ、が待っている。そのたびに窓を見る。夕方が更新される

 この街とさよならするのは丁度、あと1ヶ月ポッキリ。北国の出会いと別れを刻むは、融雪の水垂れ。僕は記事となって刻まれることはなかったが、ただの読者でもなかったはずだと思いたい。
 思いたいから、来週もその次とさらに次、同じ曜日の同じ時間に来てみようか。このカフェでは、時間は月日にも勝る。記念写真みたいなものだ。

 笑顔の可愛い店員さん曰く、明日から春メニューが始まるけど、冬メニューは終わらないらしい。いいね、どんなカレンダーよりも郊外の季節を流れさす小さなニュースは、まるで3人だけで奏でるジャズ・ミュージックのよう。
 会計を済まして店を出る。僕の鳴らす小規模なシャラシャラシャラ、は丁度、夜の始まりを殺風景な幹線道路に知らしめたらしい。これもきっと、小さなニュース。来週はもっと雪が少ないかな?何を頼もうかな。

この記事が参加している募集

この街がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?