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食の哲学

『食の哲学』   サラ・ウォース著 永瀬聡子訳  2022年

著者のサラ・ウォースはアメリカの哲学者です。
私は時々、料理を提供することがあって、それはいい食材を伝えることを目的とした料理です。その理由は応援したい農家とニワトリ農場が有るからです。
「食べ物が地球を癒す」と思っています。

この本にはそんな思いの奥にあるものが書かれていて感動しました。
以下に何箇所か引用します。

ブルデューは、結局のところ食べ物の趣味の良さ―味を正確に評価できる能力―とは、味の評価力を育てる能力だと述べている。しかし、味の違いは様々な食べ物を味わう経験をしなければわかるようにはならないだろう。食べ物の味覚的評価とは、ある種の記号の読み取りであり言語の理解と同じ類のものだが、文化的な文脈でしか意味をなさないというのが彼の考えだ。その記号を「読む」ことができない人にとっては、記号が見えないのではなく、その意味が理解できないのだ。

一般に、ワインは優れた味覚を持つ人を見分ける究極の検出装置だとされている。ワインは地球上で最も複雑な飲み物だといってよいだろう。ワインの味は様々な要因から影響を受け変化するため、それらの要因を熟知している制御する醸造家には、信じられないほど洗練された味覚が求められる。

食べ物やワインを味わい、その良さがわかるようになるには、様々な土地の様々な食べ物を味わった経験が必要だ。味は客観的な知識として理解するべきだという考えには賛成できない。食べたものについて自分がどう感じたかを自覚しなければ、好みは慣れ親しんだものから広がっていかない。いろいろなものを食べて味わってみなければ、生まれ持った好みのままだ。食べたことのないものを食べてみるからこそ、味の経験を広げることができる。認識論の哲学にもあるように、私たちは新たな経験をすることで、より微妙な違いがわかるようになるのだ。

食事を誰かと共にすることには特別な意味があり、神聖な行為と言ってもいいだろう。この食べ物は、何処から、どんな人たちの手を経て、この食卓まで届いたのだろうかと思いを馳せる、それは食卓を囲む私たちの喜びをさらに豊かなものにしてくれるはずだ。少し断定的な言い方になってしまったかもしれないが、私はそんな理想を思い描いている。おいしさがわかるためには、舌で感じる味覚を超えた食べ物との関わりが必要だ。私たちは食べるという行為とその経験を通じておいしいもの、良いものがわかるようになる。要するに、食べ物のおいしさがわかるためには意識の働きが必要なのだ。

人間と動物が多くの点で異なっているのは明らかだ。しかし動物にはない最も重要な能力の一つは、調理と食事に関わる能力だ。動物は食べ物を調理しない。味付けもしない。計画的に食事をするわけでもない。人間も動物も食べなければ生きていられないが、すべての人間には共通する普遍的な特徴がある。それは、食べ物を調理することだ。なぜこのことが重要かといえば、あらゆる文化圏、あらゆる時代の人間に共通する、これほど普遍的な特徴はそう多くはないからだ。私たち人間は調理をする際、食材を食べやすく消化の良いものに変えるだけでなく、地域の伝統やその土地ならではの食の歴史といった文化的価値を映し出すものへと変換しているのだ。

食の快楽は、ただたくさん食べれば得られるというわけではない。そこには何らかの精神の関与がある。実のところ、何かを味わうこと—賞味すると言ってもいいだろう—は、人間の食べ方が動物と違っている重要な点のひとつだ。人間はその認知能力のおかげで、自分が食べるものについて考えを巡らせ、過去に食べた経験を思い出したり、微妙な味や食感に注意を払ったりすることができる。

私たちは皆それぞれに、普段は特に意識しないような信念の束からなるイデオロギー(価値の体系)を持っていて。世界を見るときにもその影響を受けている。

アメリカでは、食事や食材に対する考え方にも資本主義の影響が及んでいる場合が多い。資本主義は、効率性、低コスト、そして大量であることを良しとする。その象徴的な例がマクドナルドだ

スローフードは基本的に、ファーストフード、そしてファーストライフとは正反対の考え方だ。スローフードは、イデオロギーであると同時に実践でもある。スローフードとは、ローマのスペイン階段の近くに最初のマクドナルドが開店した年である1986年に、イタリアで始まった草の根運動だ。

スローフードのイデオロギーは、食の伝統、産地、品質、味、人、農作業、そして無理のない価格などに価値を置く。スローフードを推進する人たちは、伝統的な調理法と有機農法を推奨し、また、農産物を育てて収穫し調理して食べるという一連の営みを、コミュニティの人々が皆で協力して行うことが大切だと考える。さらに重要なのは、良い食材は高価であってはならず、食べる喜びは人間の権利であるとしている点だ。スローフードは、手頃な価格で誰でも手の届くものでなければならないのだ。現代の食に関して、これらすべての条件をクリアするのは、直観的には不可能に思えるかもしれない。だが、運動の推進者たちは、この数十年にわたって食のグローバリゼーション、食べ物と「味」の標準化に戦いを挑み実践してきたのだ。

スローフードはまた、旬の食材、公正な労働条件、長年にわたり蓄積された農産物や料理などの文化的知識、そして手の届く公正な価格が大切であると訴える。スローフードは、街頭で抗議して政策の変更を声高に要求する運動ではなく、食卓における心の在りようを変えようとする試みなのだ。

通常、テロワールに関連して最もよく論じられるのはワインだが、テロワールは多くの食品に影響を与え、世界中で栽培される食べ物の品質と味に影響を及ぼしている。工場生産でない食べ物にはどれもテロワールがあり得るが、食糧生産の産業化が進むにつれて、テロワールの影響は少ない方が良いとされるようになった。テロワールは食べ物の味を変えるが、産地も重要な要因だ。特定の風味は狭い地域内でしか生み出されず、その土地と深く関係していることが多い。一方、工業生産された食品には地域とのつながりや故郷はない。化学的に加工処理されて、季節や年にかかわらず、文字通り同じ味の製品となっているからだ。テロワールのある食べ物には故郷があり、起源があり、生産者がいて、その風味を決定づけ、ときには独特の欠点の理由ともなっている。

スローフードの理想は、その食べ物が大地とそこに根差した作物や動物を材料とし、熟練の職人によって作られたものであり、産業工場の製品ではないことだ。「スローフード」は、生産地の名前もない製品ではなく、私たちと土地を結びつけてくれる作物を大切にするよう求めているのだ。

私やスローフード運動の主張は、料理をきちんとしないからといって、その人たち、特に女性を非難するものではない。フードシステム全体を様々な視点で考察するのが目的なのだ。私が言いたいのは、工場から届く食べ物を食べるとき、楽しみやコミュニティ、自然とのつながりが失われているということだ。子どもたちが、自然の状態の食べ物を知らないことも残念だ。

スローフードとスローライフは、道徳的な命令でも戒律でもない。このような生活を選択しなくても何の支障もなく幸せに暮らすことはできるだろう。しかし、これは「一つの生活様式」であり、哲学者の言う「一つの世界観」であり。農業システム全体―食材を育て、購入し、調理して共に食べるという営み全体を包含するものなのだ。スローフードは、スローフードならではの楽しみや、人と人とのつながりをもたらし、私たちの身体と心を養ってくれるのだ。

料理の本質は、自然を文化へと変換する過程にある。食べ物を文化に変えることは多くの宗教儀式や、国家をはじめとする共同体が有す文化的アイデンティティの土台であり、共に食べることは他者とつながるための大切な方法なのだ。

料理には理論的知識と実践的知識の両方が必要だ。料理を作る過程には実に多くの変数が関わっていて、それを「感覚的」につかむことが重要であり、それには何年もの修練が必要になる。ある料理人が言ったように、「出来上がりを教えてくれるのは時計ではない。料理そのものだ」というわけである。

ナイジェラ・ローソンは、自身の料理本『How to Eat(いかに食べるか)』の序文で次のように述べている。
「料理をするということは、ただ点と点を繋ぎ合わせるように盲目的にレシピに従い、一つ一つ作業をこなすことではありません。それは食材への理解を含め、そしてキッチンでの自信を育むことなのです」

ローソンによれば、料理を習うということは、食材を思いのままに変化させる技能を身につけるだけでなく、お気に入りの食材を見つけることでもある。「料理の最も簡単なやり方は、見ることだ」と彼女は書いている。彼女に言わせれば、料理は自分の家のコンロで始めるものであり、見て、それからやってみることで身につくものなのだ。
「料理人たちは。このことをよく知っています。フランスやイタリアの優れた料理人は、家庭で料理を身につけ、その後、それをレストランで活かして有名になっています。彼らの土台は家庭での料理にあり、そこから修業を始めます。家庭料理をレストランに持ち込んでいるのであり、レストランで覚えた料理を家庭に持ち帰っているのではありません。順序が逆になると、文法を知らずに語彙だけを覚えるようなことになってしまうでしょう。」


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