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哲学対話──パフォーマンスイベント「行きかう記憶」(2023.0422.経堂アトリエ)

画家として活動するRoy Taroさん(以下たろうさん)、俳優として活動するオガワジョージさん(以下じょうじさん)による展示/パフォーマンスイベント「行きかう記憶」にて、哲学対話を行った。2人は1年ほど前に経堂アトリエを拠点として行われていたアートプロジェクトで出会い、出会って間もなく2人はライブボディペインティングを行った。そこで築かれた時間をさらに深めるべく、1年後のこの春、2人はそれぞれの記憶を共有する試みとして今回の制作に取り組んだ。
パフォーマンスは、大きく3つの要素──じょうじさんのスマホのパフォーマンス、たろうさんのライブペインティング、海の映像──から構成されていた。45分間、じょうじさんの発話、たろうさんのストロークはそれぞれ繰り返され、お互いは会話を交わすことなく時間が流れていく。


じょうじさんのパフォーマンス。この1年間経堂で取り組んだプロジェクトについて、スマホで通話する形式で語られていく。


たろうさんのペインティング。じょうじさんの発話、海の映像から現れる要素との共鳴を図るようにキャンバスを埋めていく。

哲学対話では、パフォーマンスと関係しているのかいないのかわからない言葉が断片的に交わされた。臨場性を残すために、できるだけランダムにトピックを書き残しておきたい。

誰かに向けられたパフォーマーの言葉

俳優、パフォーマーの言葉は、誰に向けられているのか。舞台で語られている言葉は、特定の誰かに向けて語られているものではない。ただ、観客にとって、自分に向けて語られているように受け取れる言葉はたくさんある。たとえば哲学対話のなかで、じょうじさんが「恥ずかしいこと」を語るときには、直視できなかったという感想があった。ここで恥ずかしさを感じているのは、発話しているじょうじさんではなく、それを聞く/見る観客である。「恥ずかしいこと」を語っている人を見ることにおいて、恥ずかしさが生じる。

「何回舞台に立てば」

何回舞台に立てば俳優なのか。一定の年数、自分で絵を描いていればその人は画家なのか。
このような問いに、明確な定義が与えられることはない。その人が俳優であったりアーティストであったりすることは、外部の基準と照らして考えることがあると思う。だけど対話では、底が抜けてるような肩書きを名乗ることは、客観的な評価を得るだけではなく、自分の表現、アイデンティティ自体を自分で保つためでもあるという話が出た。自分が誇りややりがいを持って取り組んでいる活動が、何らかのしかたで踏み躙られると、それは、少し大袈裟ではあるがその人のアイデンティティを壊すようなところがある。「それは趣味だよね」「それは作品とは呼べない」などと言われれば、そのことに本気で取り組んでいる自我にヒビが入る。活動を括る名前は、他者に示すことであると同時に、その人がその人として生きていくために必要なのだ。

舞台と建物、肩書きと人間

表現活動を行うとき、空間をどのように使うかを考える。それは、言い方を変えれば現実の建物をフィクション化する作業でもある。また、同じことは俳優や画家といった肩書きと、生身の人間であることにも言える。肩書きに焦点が置かれ、俳優はこうあるべき、画家はこうあるべき、という考えを推し進めていくとき、その人が人間であるという事実を追い抜く瞬間が来ると、そこには事故が生じる。舞台は常に壊れうる建物であるということ、なんらかの肩書きを背負うその人は、何よりも前にひとりの人間であること。フィクションと現実の指標は、常にグラデーションを必要とする。

自動販売機に入れた千円札はどこに行くのか

対話を聞きながら、わたしはあるエピソードを思い出した。2年前の夏、海で親子連れを見た。お父さんから千円札をもらって、3歳ぐらいの女の子がジュースを買おうとしている。お父さんに見守られ、背伸びをして、女の子は「これどこ行くの?」と言いながら自動販売機にお金を入れた。

自動販売機に入れたお金はどこに行くのか。

ATMに預けたお金は、ほんとに帰ってくるのか。「預ける」と言っても、その間誰が預かっているのか。ペットボトルの水は、飲んだらなぜ無くなるのか。

突然降りかかってくる(子どもの)以上のような問いは、時に大人が考え詰めて作る作品、コンセプトなどよりも、瞬間的な破壊力を持っている。その破壊力は、人生の極めて限られた期間にしか持ち得ない、決して自分の力では作品として提示することができない、無自覚な技術である。
自販機に入れたお金の行き先が気になっていた女の子も、そこから10数年足らずで「処世術」を覚え、世間で生きていけるようになっていく。


哲学対話では、感想でもレビューでもない浮遊感のある言葉が交わされた。対話の時間を踏まえて「記憶を共有するパフォーマンス」とは何かを考えてみると、わたしはその形式自体に掴みどころのなさを覚えた。そんなことが可能なのか。「記憶を共有する」とはそもそもどのような作業を指すのか。こんなことを気にしていても仕方ないのかもしれない。それよりも、コンセプトや作品としての質や肩書きについて考えることの方が重要なのかもしれない。だけど、自販機に入れたお金の行方を気にすることが許されるような時間が、この世界に流れていてほしいと思う。創作活動や鑑賞体験は、処世術を覚えた人間に対してそんな希望を抱かせることがある。(文:長谷川祐輔)

イベント概要
タイトル:行きかう記憶
作家:Roy Taro、オガワジョージ
日時:2023.04.17(月)〜 04.23(日)12時〜18時
会場:経堂アトリエ
撮影 : Christian Brauneck


哲学のテーブル:instagramアカウント


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