コリン・ウィルソンに関する問題群

(初出 コリン・ウィルソン情報BBS)
(1) 投稿日:2003/02/02(日) 15:24:10
ここでは、コリン・ウィルソン関連の問題群を提示します。ここで答える解答はあくまで例ですから、各自自分なりに(実存的に)考えてみるとよろしいでしょう。
Q.コリン・ウィルソンの唱える新実存主義とサルトルの唱える実存主義との共通点と差異について答えよ。
A.『アンチ・サルトル』の邦訳がないのが、この問題を考える上でネックですが、アウトサイダー・サイクルの『アウトサイダーを超えて』などを参考にして答えるとよいでしょう。ここでコリンは、フッサールとホワイトヘッドの哲学の綜合を行うことにより、サルトルのペシミスティックな実
存主義からオプティミスティックな新実存主義にシフトしようとしています。サルトルにおいても、フッサールの志向性の考え方は重要な位置を占め、(対自存在の)意識をつねになにものかについての意識であるとして、現実と関わる行動主義的な哲学を構築したわけです。一方、コリンの方は、生命肯定主義的な哲学基盤の上に、意識の調和的な進化を描いてみせたといえます。もうひとつ、それぞれの哲学のめざすものの差異について考えてみましょう。初期サルトルは『嘔吐』においてロカンタンに、すべての(即自)存在を恥じ入らせるような完璧な音楽を志向させ、芸術に救済を求めるわけですが、その後『自由への道』以降、政治参加(アンガージュマン)を志向するようになり、マルクス主義に接近してゆきます。一方、コリンの方は、政治的志向は希薄で、マルクスについてもルサンチマンを抱いた犯罪者タイプと看做し、むしろインナー・ヴィジョンの開発に眼を向けます。隠秘学的関心もその一端を示すものといえます。
(2)  投稿日:2003/02/02(日) 16:09:55
続いてコリン・ウィルソンのアウトサイダーに関する心理学的アプローチの問題について考えてみます。
A.コリン・ウィルソンの哲学と、マズローの人間性心理学との共通点と差異について答えよ。
Q.マズローはサルやヒトに関する実験データを重視する科学者であり、「絶頂体験(邦訳では至高体験)」に関する説においても、「絶頂体験」を自分で引き起こすということについては、慎重な発言しかしていません。コリンの場合、新実存主義者ですから、「絶頂体験」に至るように能動的に自分でスイッチを入れることが可能であると考えています。アウトサイダーの問題を解決するために、コリンは主体が自己実現をして、「絶頂体験」を獲得することが重要であると考えています。コリンの「X機能」の説も、そんな生命肯定主義の延長に考えられています。
(3)  投稿日:2003/02/02(日) 16:11:23
A.以前コリンが笠井潔氏と対談したとき、「絶頂体験」を個人的なものとして捉え、集団的な「絶頂体験」について、当初否定的でしたが…。
Q.その対談は笠井氏の『秘儀としての文学~テクストの現象学へ』(作品社)に収録されています。コリンの場合、「絶頂体験」を新実存主義的に、パーソナルに到達すべき地点と考えており、それ以外の集団的な「絶頂体験」は、強制されて起こされた贋の「絶頂体験」と考えていました。一方、笠井氏は、『テロルの現象学』で党派による観念的倒錯の極地である収容所社会
を、根底から覆す民衆叛乱を考えていて、そこに観念によって観念を浄化する「集合観念」を見ているわけです。「集合観念」とは、集団的な「絶頂体験」です。笠井氏との対談を通じて、コリンも集団的「絶頂体験」の存在を認めるようになったようです。
(4) 投稿日:2003/02/02(日) 16:12:13
A.コリンの心理学は、現代の唯物論的精神医学から見ると、どう捉えられるのでしょうか?
Q.最近のニュースで統合失調症が、EGFという特殊なタンパク質の過剰投与で引き起こされることがわかったことが発表されました。現代の唯物論的精神医学は、このように還元主義的なアプローチで、心理現象をドーパミンとセロトニン、アドレナリンとノルアドレナリンといった化学物質に還元して捉えようとします。「絶頂体験」もドーパミンがA10神経に影響を与えているからと考えるでしょう。瀬名秀明氏の『BRAIN VALLEY』を読むと、臨死体験すら脳内の虚血による異常なレセプターの反応が引き起こした幻覚としてみることができるという仮説が示されています。これは勿論、『コリン・ウィルソンの「死後体験」』や『死を超えて生きるもの』(共著・春秋
社)で示されたコリンの説の対極にあるものといえるでしょう。しかし、現代の最先端の精神医学といえども、なぜ自分自身(の意識)で「絶頂体験」のスイッチを入れること(脳内麻薬物質を分泌させること)ができるか、を説明できずにいるのです。一体、意識とは何でしょうか?
(4)への補足 投稿日:2003/02/03(月) 07:24:32
コリンの話題からは外れますが、付論をつけるとすると、右左分離脳以降の大脳生理学の動向を追うとすると
(1)カール・プリプラムの大脳のホログラフィー・モデル、さらにそれを突き詰めたホロムーブメント、甘利俊一の大脳の情報処理に関する数理的研究を追う必要があり(参考文献『脳を考える脳』K・プリブラム、甘利俊一、浅田彰共著、朝日出版社)、
(2)生物学全般についてもウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラのオートポイエーシス(自己組織化)について探求せねばなりません。(参考文献『知恵の樹』マトゥラーナ&バレーラ共著、ちくま学芸文庫)
(4)への補足 投稿日:2003/02/07(金) 17:10:23
最近読了した竹本健治氏の『クレシェンド』で、左右分離脳説とからめて日本人の特性について論及した部分がありました。西欧人では左脳で論理を、右脳で直感的領域を思考するわけですが、日本人は左脳で論理も感情も扱っており、そのため、感情と切り離したクールな議論のやりとりが不得手だというのです。以上は昔有名になった説なのですが、その根底に日本語を第一言語として学習することがあるのではないか、と竹本氏は考えます。(このくだりは中村雄二郎の影響が入っているのでは、と推察しますが。)興味深い考え方ですので、紹介しておきます。
(5)  投稿日:2003/02/03(月) 21:27:02
Q.アウトサイダー・サイクルの後、コリンは『オカルト』『ミステリーズ』『超オカルト』三部作と、神秘学関連の評伝を書きますが、これらはどのように評価されるべきでしょうか?
A.コリン・ウィルソンは出発点において、すでにインナー・スペースへの探求と、意識の進化という問題を抱えていました。『オカルト』において、彼は黄金の暁系のアレイスタ・クロウリーの儀礼魔術、マダム・ブラバツキーの神智学から出発して哲学・社会思想(社会の三層化運動)・農学(有機農法)・美学(オイリュトミー)・医学(ホメオパシー)に影響を及ばしたR・シュタイナー、そしてコリンが完全な(新)実存主義のかたちと考えるグルジェフとウスペンスキーの体系…を紹介する形で、現代における爆発的なオカルト・リバイバルに火をつけました。
現代の物質文明は、一見自由に見えて、実は「計算する思考の圧倒的支配」(ハイデッガー)に拘束されているともいえます。コリンのオカルト評価には、さまざまな秘教を通じて、自己の本来性を発見し、内にある世界を開放し、生き生きとした外世界に塗り替えてゆこうというグノーシス主義的な意志を感じます。
グノーシス主義は、キリスト教正統派とネオ・プラトニズムによって歴史から一旦抹殺されたわけですが、今日では「ナグ・ハマディ写本」の考古学上の発見によって生の声を知ることができます。「ナグ・ハマディ写本」の中には、あなたが心の中を外に出すならば、あなたは救われるが、そうでないならばあなたを滅ぼすという言葉が見られます。ユング派の心理学者は、ここに現代の実存主義と共通する反宇宙的二元論を見出しています。すなわち、物質文明の鉄の牢獄の中でわれわれは本来の自己を忘却しているが、本当の自己(=光)を発見すれば、牢獄を脱出できるのであると。
グノーシス主義に関心を持たれた方は、コリンのオカルト・サイクルの次にフィリップ・K・ディックの『ヴァリス』『聖なる侵入』『ティモシー・アーチャーの転生』『アルベマス』を読まれることをお勧めします。ここでオカルト・リバイバルの第二幕を見ることができるでしょう。
(6)  投稿日:2003/02/03(月) 21:52:14
Q.コリン・ウィルソンには膨大な犯罪学の著作がありますが、これらはロバート・K・レスラーらのプロファイリングのアプローチの仕方とどう違うのでしょうか?
A.コリンの犯罪学の著作には、明らかに犯罪を網羅するデータベースを作ろうとする意志があり、膨大な情報のなかから現代における殺人のパターンを掴み取ろうとするねらいがあるようです。そこで重要なタームが「純粋殺人」と「連続殺人」です。「純粋殺人」においては、怨恨や金銭の強奪といった理由が見出せません。コリンは無動機の無差別殺人に、現代の犯罪の特
徴を見ようとしています。また、コリンの関心は、「連続殺人」による大量殺人にも向かっています。(連続殺人者については、大脳の中の異常が見られるとの報告があります。)
一方、プロファイリングは行動科学の方法を取っており、統計データをもとに、犯罪と犯罪者の分類を行い、犯罪者の特徴を推定します。膨大な犯罪のデータベースをもとにすることは共通していますが、アプローチの仕方は、コリンが内的であるのに対し、FBIによって開発されたプロファイリングは外的なのです。コリンの出発点となっているフランスの実存主義では、メルロ=ポンティが『行動の構造』で行っているように、実証主義的行動科学では人間の実存を解明し尽くすことは不可能であるという認識があります。コリンの犯罪研究は、犯人の心の中にサイコ・ダイビングして、犯人の心性とシンクロして、その動機を「了解」しようとする危険な試みなのです。これもまた、心底から人間を信頼しているからこそ、為せる技といえます。
(6)への補足 投稿日:2003/02/07(金) 21:13:36
(6)ではCWの独自性を強調しすぎたようです(軌道修正)。[確かに、コリンの使用している連続殺人=シリアル・キラーという概念は、ロバート・K・レスラーの概念であり、 ロバート・K・レス
ラーの著作にはフリードリヒ・ニーチェの警句がエピグラムとしてつけられ、犯罪者の心理に迫るために、犯罪者の心になってしまうことへの警戒をうながしています。両者は相補的な関係にあるといえます。]([ ]内は、前後の関係がわかるように、本HPに掲載するにあたって加筆した部分です。)
『狂気にあらず』の冒頭の写真(人肉料理)を見ると、殺人者の心理には理解を絶するところがあります。旧版のフランクルの『夜と霧』の巻末のナチスの犯罪行為の写真(人皮製のランプや死体の山など)とともに、このようなことがあることを知っておく必要はあるが、二度と開きたくない本といえます。
ところで、『狂気にあらず』『饗~カニバル』「マーダーケースブック創刊号(佐川一政)」というのは、『至高体験』の翻訳者四方田剛己(=批評家・四方田犬彦)がお膳立てしたのでしょうか?というのも、唐十郎の芥川賞受賞作『佐川君からの手紙』でも、作品の成立のきっかけ(手紙のやりとり)から四方田氏が関与したという話を、どこかで読んだ記憶がありますので。
(7)  投稿日:2003/02/05(水) 21:55:18
ドストエフスキーは、自分の魂の中に悪魔と神がせめぎあっていると常に感じ、神は存在するか否かに答えるべく『カラマーゾフの兄弟』を書いた。彼の主張はゾシマ(有神論)の側にあったが、イワン・カラマーゾフ(無神論)の主張を描いた章(「プロとコントラ」等)の方が短期間で書くことが出来たと言う。「コリン・ウィルソンの問題群」を書きながら、極端な神秘主義と、極端な科学的唯物論の闘いが、自分の中で起きていることに気づいた。たとえば、コリンが取り上げている儀礼魔術にしても、新実存主義的な神秘主義で肯定的に語ることもできれば、一切神秘を認めない唯物論による説明もある程度可能ということだ。
とりあえず、神秘主義肯定派ならば、こう考えるというケース・スタディ。
例えば黄金の暁会のマクレガー・メイザースらが持ち上げた『アブラメリンの魔術』という古典的テクストがある。これは召喚魔術の一つで、将棋の碁盤の目のような図を書いて、魔物を降ろすわけだが、それに踏み切るまでに、長期間の断食を要請している。喰い物という物質を断ち切るという意味と、精神の極端な集中の要請と見ることができる。精神の集中により念をこ
めるわけだ。また、他の魔術書をあたると、魔術の法具は自分でつくることの要請がある。そして、これまた召喚のためのジジル(マークのようなもの)の作り方があり、自分の願いをアルファベットで表し、このアルファベットを組み合わせて、判読不能の図にして、これを無意識の開放状態(トランス状態、性魔術ではこのとき性的エネルギーを用いる)において、この図を刷り込
み、意識の上ではすべてを消去せよ、とある。法具を自分でつくるのは、無意識のコントロールを自分でせよ、ということだし(ある意味、夢見の技法に通じている)、シジルの作り方は、魔術の本質が無意識に隠されていることを意味している。このように、つぎはぎながらも、魔術のロジックは了解できる。
(8)  投稿日:2003/02/05(水) 21:56:44
前回の続き。今度は科学的な立場からの見解。
一方、科学でもなんとか説明はつかなくはないという声が一方ではしてくる。ずっと断食を続けていれば、脳内が虚血状態になって、(以前臨死体験の関連で述べたように)幻覚に陥るのは、当たり前の脳内物質の化学反応である。これで、呪いが効くというのは、それを信じるものには、それに該当する事例だけがセレクトされ、脳内の記憶中枢に、何度も強化刺激が入るから、効くような印象を受けるだけである。呪いをかけられた者の体調が悪くなるのは、呪いをかけられた心因性のストレスで、体内の代謝が悪くなり、免疫も弱って、いろいろな疾病が出てくるだけだ…というふうに。
一体、私は何を信じているのだろう。このまま物事を突き詰めて考えてゆくとすると、人ですらなくなってしまうような底なし感…。
(8)への補足 投稿日:2003/02/06(木) 20:38:16
理論物理学におけるハイゼルベルグの「不確定性原理」、数理論理学におけるゲーデルの「不完全性原理」は、認識の限界を証明するに留まらず、そこから新たな認識の展開を約束するものではないでしょうか。例えば、批評家の柄谷行人は『隠喩としての構築』の時期に、論理体系について「形式化」をつきつめてゆくと、ゲーデルの定理に行き着くとして、体系の構築の果てに「脱-構築」を探ろうとしたわけです。柄谷氏のこの試みは西欧におけるポスト構造主義の動きと呼応したものでした。コリンは構造主義一般について、また脱-構築の理論家デリダについても、論理優先のニヒリスティックな考え方として、否定的な見解を持っているようです。
しかし、ポスト構造主義の潮流の中で、再び生命や世界の生成について考える気運も生まれており(例えばドゥルーズやミシェル・セール)、そうした観点から改めてコリンら実存的な(もはや実存論的でも、実存主義的でもなく、単に単独者的という意味でですが)作家・批評家を読み直すのは意義のあることではないかと思うのです。(でも私もコリンと同じく独学ですから、アカ
デミックな方々がどう考えるかは知りません。)
(9)  投稿日:2003/02/08(土) 21:22:10
CWが『オカルト』で取り上げた現代の神秘主義の潮流について、先に黄金の暁会の系列をあげたが、ルドルフ・シュタイナーとグルジェフ&ウスペンスキーの系列についても考察を展開する必要がある。シュタイナーは昔から霊視能力があったというが(もっとも彼のアカーシックレコードの解読には明らかに科学的常識に反するところが含まれている)、時期が来るまで伏せておくほうがいいとある人物(薬草学や神秘学の達人?)に言われていたようだ。そのため、ゲーテやニーチェに関する学究の徒として出発する。ところで『ファウスト』も『ツァラトゥストラ』もドイツのビルディングスロマンの系列の著作である。シュタイナーは神智学と出会い、神秘学を解禁にした後、人智学を始めるわけだが、その際「シュタイナー教育」を始めたのは、このような教養主義の伝統から出発したからではないか、と思われる。シュタイナー教育については、フォルメン線描やオイリュトミーなど人間の内部から芽生える感性の開発に力を注ぐが、それは薔薇の木に愛情を持って水を注ぐ行為に似ている。(シュタイナーは薔薇十字の伝統に立脚しており、それはゲーテとの共通点である。)これは印刷機のように外知を子供に刷り込み、偏差値をもって「輪切り」の選別を行ってゆく現代の教育と鋭く対立している。(外知と内知=暗黙知については、M・ポランニー『暗黙知の次元』を参照。)
(9)への補足 投稿日:2003/02/08(土) 21:41:07
補足すると、シュタイナー教育については、子安美知子さんの一連の著作や高橋巌氏の著作を参照されたい。シュタイナー教育は、シュタイナーの哲学や神秘学に立脚しているだけに、単にテストを廃止し、ドイツのシュタイナー学校のカリキュラムを導入し、音楽・美術・踊りに力を入れただけではだめで、教師の人格が直に影響すると思われる。
(9)への補足 2003/02/11(火) 13:48:01
ルドルフ・シュタイナーの主要著作『神秘学概論』『神智学』『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』は、現在ちくま学芸文庫で入手できます。ただ、シュタイナーの著作で、ひとつだけ選ぶとすると『第五福音書』(イザラ書房)を選ぶでしょう。
(10)  投稿日:2003/02/09(日) 18:35:27
シュタイナーに続いて、グルジェフとウスペンスキーについてとりあげることにする。グルジェフ、ウスペンスキー、ラスプーチン、ドストエフスキー…と並べると、ロシア的な霊力の高さということを感じさせる。例えばウスペンスキーの『奇跡を求めて』とか『ターシャム・オルガヌム』とい
う著作は、東方的な四次元思想、高次元思想の完成された形であると感じられる。中沢新一に『東方的』という著作があって、ロシアアヴァンギャルドのシュプレマティズムといった芸術運動に、東方的な四次元思想、高次元思想を見ようとする試みなのだが、ここにギリシャ正教経由のグノーシス主義的超越への衝動を中沢は見ているのだ。グルジェフ、ウスペンスキー、ラ
スプーチン、ドストエフスキー(彼らはいずれもCWに取り上げられている)にも、東方的グノーシス主義的傾向が見られる。なぜ、ドストエフスキーがローマ・カトリックに対抗して「大審問官」(『カラマーゾフの兄弟』)を書いたのか、と問えば、ローマ・カトリックは超越のテクネーを独占しているということ(人は教会によらずして神に近づくことはできない)、そこに教会が権力を握る秘密(ミシェル・フーコーなら牧人-司祭型権力と呼ぶだろう)があることを見抜いていたからである。それを彼はギリシャ正教的な東方思想に基づき、発見したのである。グルジェフやウス
ペンスキーのシステムもまた、何かに依存せず(月の食べ物になることを拒否し)超人になるためのワークをエニアグラムで示したものではないかと思うのである。
(11)  投稿日:2003/02/11(火) 18:50:31
はたして、コリンに批判された「実存主義」とは、ひとつの主義として扱っていいものだろうか。
まず、サルトルであるが、彼は「実存主義とはヒューマニズムであるか?」という講演を行い、それを本にまとめ『実存主義はヒューマニズムである』を発表したので「実存主義者」と呼んでいい。ボーヴォワールによると、「実存主義」はジャーナリズムが使用し、サルトルは「実存主義とは何か」と聞かれ、はじめは「知らない」と答えていたという。私見によれば、彼は他者が「実存主義者」と自分のことを言うのであれば、対他存在としてそれを引き受けてゆかざるを得ないという思想に基づいていると思われる。
ところで、サルトルに「無神論的実存主義」と言われたハイデッガーは、自分が『存在と時間』を書いたのは、存在(ある)とは何かに答えたかったからだといい、存在者(あるもの)としての現存在(=実存のこと)を探求したのは、そのための手段だったとしている。だから、ハイデッガーは正しくは「実存主義者」ではなく、「基礎的存在論」の構築を目指しただけであり、また<神>とは言わないが<存在>という言葉で、存在者を存在者たらしめるものを指しており、「無神論的」というのも言いすぎである。
また、サルトルに「有神論的実存主義」と言われたヤスパースは、「実存主義」のように実存を「主義」化することはできないとして、「実存哲学」という言葉を使っており、これまた微妙に意味が違うのである。

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