ドリア

小説『オスカルな女たち』14

第 4 章 『 決 意 』・・・2



     《 ココだけの話 》

2階の分娩室の片づけを済ませた看護師〈木下楓〉が、新生児のカルテを持って診察室のドアをノックした。
「はい…」
それまで椅子の背もたれに体重をかけていた体をゆっくりと起こし、真実(まこと)はけだるそうに入り口のドアを見た。
「おつかれ~」
「お疲れさまでした。…第2分娩室、滅菌処理入りました」 
言いながら楓は、カルテをデスクの上に置いた。
吉澤産婦人科医院には分娩室が3部屋ある。2階の新生児室の両脇に1部屋ずつと、予備に1階の奥の部屋である。この奥の部屋というのは、いつも真実がシャワーを無断拝借する〈ファミリールーム〉で、この病室には分娩可能なベッドが設置されているのだ。通常は病室から近い2階の分娩室を使用することになるが、希望によっては〈ファミリールーム〉で行う場合もある。
「はい、ご苦労さん」
頭の後ろで腕を組み、小さく答えて楓を見上げる。
「今日はもう帰んな。夜勤明けなのに悪かったね、いつまでもつき合わせて」
「いいえ。真実先生も早朝からお疲れ様でした」
今日は木曜日で、医院は休診日だった。しかし妊婦に休日はなく、産気づいてしまえば出産あるのみだ。
深夜に「破水した」との連絡で患者が来院し、そこから8時間を要する分娩だった。難産とまでは言わないが、妊婦が陣痛の最高潮時に眠ってしまうという特異な体質の持ち主で、なかなかいきめずに難航したのだった。
「わたし『眠り産』…?って、初めてでした。あんなに何度もビンタされることってなかなかないですよね?」
自分の頬を押さえながら楓は、つい先ほど出産を終え、病室で眠っている妻の頬を冷やしている旦那さまの姿を思い浮かべた。
「そうか。びっくりした?」
「えぇ。だって、婦長のあの顔…普段冷静な人のあんな姿は…」
(婦長?)
「え、そっち?」
自分とは視点の違う意見に、力任せに頭部の後ろで組んでいた腕が外れる。
「人の顔って、あんなに自由自在に動くものなんですね」
確かに、
〈寝ちゃダメ! 起きて〉
〈もう少しよ、頑張って〉
〈…はいっ、いきんで~〉
と、患者の頬をパンパンとはじく婦長の顔は普段見れない顔ではある。
神妙な顔をしながら、妊婦の心配ではなく婦長の顔筋の心配とは…なかなか度胸が据わっているなと改めて楓に感心する真実。
それとも。
(ここは笑うところか…?)
疲労に任せた思考は、仕事中やむを得ない必死の行動を賞賛すべきか、同調すべきか一瞬悩んだ。が、
「普段はおっかない顔してるけど、根はいい人だよ」
どっちつかずの言葉しか浮かばない。
「それはそうでしょうけど。…やっぱり、怖いです」
看護師にとってはやはり、婦長の目が一番怖いらしい。
(確かに、おっかねー顔だけどな)
実は自分も母親以上に苦手だ…とは言えない医院長の真実。
「痛みの最中に睡魔って、考えられないですけど…」
と再び〈眠り産〉について問う楓に、
「まぁ、大概は眠くても陣痛の痛みで気づくものなんだけど、まれに痛みに強かったり、陣痛が微弱だったりするとそのまま眠っちまう人もいるんだ。でも、あそこまでひどいと切開になる場合もある。今朝のお母さんは頑張ったよ」
左手で右肩を押さえながら首を回す真実。
「ですね。気絶してるみたいでした」
「まぁ、そうもとれるか…。痛みに気絶する人もいるけど…それ以上なのかね?『脳内麻薬』ってヤツ? ドーパミンとか、βエンドルフィンとか、本人はまどろんで気持ちいいらしいから」
真実は手振りで頭からなにかが出ているようなしぐさをしてみせる。
「ランナーズハイ、みたいなものですかね?」
「あぁ…。あれも気持ちいいのか?」
「みたいですよ?」
「母体が気持ちよくても、いきんでくれなきゃ赤ちゃんは出てこれない。命にかかわる問題だからね」
「そうですよね…。とにかく無事にすんでよかったです」
「そうね…」
人間ひとりひとりに「個性」があるように、出産に同じケースはない。
「真実先生はどうだったんですか?」
「なにが?」
「ご自分の」
「なに? 出産のこと?」
「はい」
「忘れたよ」
(忘れたいよ)
それ以前に、婚姻の事実を忘れたいとさえ思う真実。
「そんなことないでしょう? 感動しました?」
なにを期待しての質問なのか、楓はいちいち楽しそうだ。
「感動? そんな生易しいものじゃないよ。思い出すだけで痛いんだよ」
しかめっ面でお腹をさすって見せる。
「難産だったんですか?」
「ン…まぁ。あたしの場合…」
真実は活発な少女時代を送っている。小学生の頃は陽のあるうちに家に帰ることはなかったし、中学、高校とずっとソフトボール部で、それこそ暗くなるまで部活に励んだ。当然のように筋肉をまとったたくましい体つきであり、加えて筋トレ好きだ。
「子宮のまわりに頑固な筋肉がついちゃっててね…」
「筋肉?」
「なかなか出てこなくて、48時間うなりっぱなし」
「うわ~」
それは痛い…と、出産経験のない楓は想像だけで顔を歪める。
「なのに、操先生は!『産婦人科医のくせに子宮の収縮がへたくそね』…な~んて言ってくれちゃって。子宮の収縮なんて意識してできるもんじゃないっつーの。出産に職種が関係ある? なのに!『頭でっかちね』…ときたもんだ」
結局、口真似をしながら力説する羽目になる。これをするたび、操先生を心底「憎たらしい」と思う真実。
「操先生らしい」
だが、普段からふたりのやり取りを見ている他人の目からすれば、笑い話でしかない。
「笑い事じゃないよ。あたしこそ気絶したかったよ…」
だが実際、過ぎてしまえば笑い話か…と、出産というものは生まれて来た我が子と対面した瞬間、悦びが勝り痛みなどは忘れてしまえるものだ。
「操先生本人はどうだったんでしょうね?」
「え…」
一瞬、真実の顔から笑顔が消えた。
「真実先生を産んだ時ですよ~。真実先生にそんなこと言うくらいだから、ご自分は上手だったんでしょうか? 子宮の収縮」
不思議そうに顔を覗き込む楓。
「さぁ? 聞いたことないな」
それを避けるように机に向き直る真実。
「へぇ。そういうときって、まずは母親に聞くものじゃないですか?」
「あぁ。…あてになると思う? あの天然ばばぁの話」
「またそんなこと言って。…真実先生にランナーズハイはなかったんですね」
「ランナーじゃないから」
「でもアスリートじゃないですか」
「痛みに強かっただけだよ。…それより、ベビーは?」
いつまでも帰りそうにない楓に、このあと新生児室に赴き自分の目で確認しようと思っていた赤ちゃんの様子を聞いた。先ほど楓の持ってきたカルテをすくい上げ、
「変わった様子はない?」
と、少し黄疸の出ていたことを気にしていた。
「今は眠ってます。婦長の話だと『だいぶ落ち着いた』って言っていたので…」
「そう。じゃぁ4、5日もすればとれるかな…」
真実は「新生児」という言葉が好きだ。言葉の響きだけをとっても「神聖」や「新星」といった言葉にも重なる。生まれてきた赤ちゃんは、まさに「尊く、清浄でけがれなく」そして「新しい輝きの息吹」そのものなのだ。
「…どうした?」
いつまでも診察室を出て行かない楓の視線を感じ「まだなんかある?」とその顔を見上げた。
「いえ。疲れているのに、きれいなお顔をしているな~と思って。見とれちゃいました」
「な…!」
(またこの娘は…)
目を細め、
「はいはい、ご苦労さま…もう帰って寝な」
さっさと行きなさい…と手の甲を「しっしっ…」と振る。
「いいじゃないですか~。せっかくふたりっきりなのに…」
先ほどまでの神妙な面持ちもどこ吹く風とばかりに、緩やかな表情の楓。
「だれか聞いてたら誤解すんだろうがっ」
「わたしは構いませんよ」
「あたしは構うんですよ」
真顔で楓を見据える。
「たまにおしゃべりしてもいいじゃないですか。わたしはもう非番の時間ですし、先生も休憩中です」
「オマエと話してると休憩にならない」
いつもの調子に投げやりになる。
「やだ~。オ、マ、エ、なんてっ」
「頼む。話がないなら今日はもう解放してくれ」
(くねくねするな…)
頭を押さえる。
「おしゃべりしなくても、わたしは一緒にいるだけでしあわせですので…」
(そうじゃない…!)
「あたしも操(みさお)先生が来る前に帰りたいんだよ…」
そう、本音は自分がさっさと帰って寝たい。
「もう、つれないんだから…」
「楓ちゃん、一応ここ、職場だから」
大げさに頭を抱えてみる。
「わぁ…おふぃすらぶですね💛」
「か~え~で~」
「はいはい。じゃぁ、話があればいいですか?」
「なんかあんの?」
話があるならさっさとしてくれ…と腕組みをして構える。

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「うちの駐車場の奥のおうち…。若いかどうか怪しいものなんですけど…あの夫婦、産婦人科の隣に住んでいながらいつまでも子どもができないな~って思ってたら。なんと…1階と2階で別々に寝てるみたいなんです!」
楓は診察ベッドに腰を下ろし、唐突にそんな話を切り出した。
「は? なに? 楓ちゃん、のぞき?」
なにを突然言い出すのか?…と回転椅子を診察ベッドに向け、呆れ顔で問い掛ける。
「揉め事は勘弁してよ」
腕組みの手を外して力強く自分の両腿に手を押し付ける。
「違いますよ~。昨日夜勤の見回りのとき、たまたま見えちゃったんです、窓の向こうが」
(窓の向こうが…って…)
「たまたまだろうとなんだろうと、それはプライバシーの侵害だから…」
「やだぁ。…誰にも言いませんよっ」
拳を握った両手で頬杖をしてにっこり笑って見せる楓。
「今しゃべってる」
人差し指を振り、上目遣いに軽く睨んでみせる。
「…真実先生はいいじゃないですか~。ココだけの話です」
ケラケラと悪びれもなく立ち上がり、思い出したように診察室奥のタオルが置いてある棚を目指す。
「気をつけなよ。言いがかりつけられたら大変…」
「は~い」
とはいうものの、舌の根も乾かないうちに、
「たいてい寝室は2階だと思うじゃないですか。でも、1階のブラインドの隙間からも明かりが漏れていてですね、布団をこう、ばさ~、って掛けなおしてる影が…」
話を止めるどころか新しいバスタオルを布団にたとえ、診察台にかけてみせる。
「見えちゃったのね。…でも、1階が寝室なのかもしれないじゃん」
(そのパフォーマンスは必要か…?)
「いいえ。…わたしも最初はそう思ってたんですけど、上の電気が消えた直後に下の布団がばさ~っと」
再びタオルをしならせ、診察ベッドの真ん中に押し延べて、両端を綺麗に挟み込んでいく。
「昨日の遅番だれでした? 替えのタオル忘れてます」
そう言ってベッドを叩いて見せる。
「あぁ…。だれだっけ」
(パフォーマンスじゃないのか)
「はいはい…かばうんですね。べつにいいですけど」
そう言って今度は、真実と向かい合わせに患者用の椅子に座り込む楓。
「ね? ベッドルーム別なんです」
「は?」
「裏の、ご夫婦ですよ」
(まだ言うか)
でも「電気を消しただけで、1階に下りたのかもしれない」そう言おうとする真実の言葉を遮り、
「上は上で、以前枕を叩いてる姿を見てるんですよ」
と、意気揚々と腕くみをして見せる楓は得意満面、探偵気取りの子どものようだ。
(ずいぶんな観察日誌じゃないか…)
同じくらい熱心に〈申し送り〉をしてほしいものだ…と、言ってやりたい言葉を飲み込んだ。
「仕事の関係でお互い別々に寝てるのかもよ…?」
とは言え、寝室が別だからといって夫婦仲が悪いわけでも、子どもができない理由にもならないだろう…と付け加えた。
「確かに、奥さんは早出です。赤い車はいつも医院(ココ)の出勤時間より先にいなくなってます。でも、青い車も9時前には出かけて行きますよ…? 特に問題ない時間帯ですよね?」
「まぁ…」
どうあっても自分の考えに同意してもらいたい楓は、真実がなにを言っても納得できない様子で切り返してくる。
「あたしにはどうでもいいことだけどね…」
真実はそれ以上意見するのを止め、机に向き直った。
「どうりで子どもができないわけですよねぇ…そんな夫婦もいるんですね」
「そりゃ、いろんな夫婦がいるでしょうよ」
「そんなものですかねぇ。子どもがいらない夫婦もいるんでしょうか…? わたし、ココ(医院)に来る夫婦しか見てないからか、みんなあかちゃんがほしいものだと思ってました」
顎下に人差し指を押し立て、自分の考えが正解でないことを不思議そうに語る楓だった。
確かに「夫婦=子ども」というのが世間の常識になっているのかもしれない。しかし、まれに子ども嫌いの夫婦や、仕事上やむなく子どもを諦める夫婦もいることだろう。
「そういう固定観念は仕事に差し支えるよ。いろんな人がいるんだから…」
振り返って楓を見ると「…はーい」と、神妙な面持ちで肩をすくめた。

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「…あら、や~だ~。おほほほほ…」
突然、診察室の外から耳慣れた高笑いが聞こえてきた。
「ほらみろ、きちゃったじゃないか…」
顎で診察室の外を指し示し、ため息混じりに楓を睨みつける真実。
(それにしてもデカい声だな…)
「みたいですね。じゃ、わたしはこれで帰ります」
高笑いに弾かれるようにして立ち上がる楓は、大げさに敬礼しながらそそくさと診察室をあとにした。
「あのやろ~」
舌打ちして立ち上がる。
おほほほほ…
ドアの閉まる瞬間に、再び響く高笑い。
「おいおい、おい」
(産後間もない患者だっているんだぜ? 人のいない病院でそれは不気味だろうがっ…)
素早く立ち上がり、診察室のドアを勢いよく開く。格子のシャッターが下りた受付の前に来たところで、今度は玄関口の方から大きな声が響いてきた。
あら、まぁ…
(なんなんだよ、今日は…)
真実は足早に、
「ちょっと、操先生。玄関先で…」
なにを大声を出しているのか…と問いただそうとした口が開いたまま立ち尽くす。
笑い声の主は実母であったが、
「ゆうすけ…」
一緒にいた相手がまたまずかった。
広い玄関口で190センチの長身が柱のように影になり、ただでさえ小さい実母が子どものように見えるその光景は実に久しぶりだが、懐かしむような嬉しい景色ではなかった。
(今日は嫌がらせデーなのか…)
そう思わずにはいられない。
「お、真実先生…!」
「真実先生じゃないよ。なにしに来た…?」
夜勤明けの分娩に、速やかに帰りたいところを引き留められてのおふくろさんの高笑い、そしてつい先ほど、婚姻の事実を忘れたい…と心に描いた消したい記憶が目の前にいる。
(…うっかり噂したのがまずかったのか…?)
そう思いたくなるのも無理はない。
「つめてぇな…相変わらず」
「当たり前だよ、他人さま」
間髪入れずに憎まれ口を返す。
「お前が会ってくれねーから、こうして出向いてきたんじゃねーか」
「会う必要なんてないようにメールを返しただろうが…!」
「真実先生、こんなところで大声出さないで…!」
自分の目線より頭一つ分低い実母の脳天を睨みつけ「つい先ほどまで、こんなところで大声で笑っていたのは誰だった?」そう言ってやりたい言葉を飲み込む真実。
「そうだよ、こないだのメールはなんなんだよ。話がある」
そんな小さい援護射撃に、どうにも話を聞くまでは帰ってくれそうにない珍客佑介。
「外に出よう…」
言いながら真実は白衣を脱いで操先生の小さい肩に押し付けた。
「ちょっと…」
「あとよろしく」
言いながらナースサンダルを素早く外履きサンダルに履き替える。
「はいはい…」
仕方なしとそう答えながら、珍客…もとい、元娘婿に笑顔を振りまきながら、
「たまには家の方にも顔出しなさい…遠慮しないで」
と、追い出すように佑介の背を押して玄関ドアを出る真実の背に向かって投げかけた。
「あ、じゃぁ、操先生…また…」
手を振ろうとして玄関ドアの天井に手をぶつける。
「いて…」
「あ~聞かなくていい」
冗談じゃない…と、憤慨しながら駐車場の方へと促した。
「な、なんだよ…」
「なんだよ、じゃない! てか、こっちのセリフ…。職場にまで押しかけて来るってどういうこと? ここはあんたのような野蛮な輩が顔出していいところじゃない」
正面玄関からしたたか離れた位置で立ち止まる。
「こうでもしなきゃ、話ができないだろうが…っ」
「なんの用?」
「なんの用って…」
決まってるじゃないか…と口ごもる。
「とりあえず…ここじゃなんだから」
そう言って道路向かいの喫茶店を顎で指し示す真実。

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「…ここに来るのも久しぶりだなぁ」
席に着いてからもそわそわと落ち着きのない佑介。つき合いたての頃はよくこの店で真実を待ちぶせ…いや、待っていたものだ。
「昔話しに来たわけじゃないだろ…」
対し、その吞気さが真実には苛立たしくて落ち着かない。
「なんだよ…」
「朝からなにも食べてないから、迷惑料としておごってもらうからね」
朝食には遅く、ランチには少し早いが、コーヒーだけじゃ話は収まりそうにない。水を運んでくる店員に、真実はメニューも見ずに「チキンカレー」とだけ告げた。
「ちぇ…なんだよ、しっかしりてんなぁ…。オレ、ジンジャーエール」
「当然だろ。くだらない話聞いてやるんだから…」
憮然と答える真実の頭の中はそれどころではなかった。
「よく言うぜ…」
言いながらスーツの胸ポケットから煙草とライターを取り出し、
「そういえばさっき…! お前んとこの駐車場から出てったスポーツカー、あれも妊婦なのか?」
と、とっさに思い出した様子で前のめりになる佑介。
「スポーツカー?」
(誰かいたか…?)
火をつけようとする佑介に「ここ禁煙」と、煙草を取り上げ、
「顔見たの?」
「いや…? スモークで中見えなかったし、サングラスしてたし…。てか、妊婦があんな車乗り回してて問題ないのか…?」
「そんなことはどうでもいい。顔は? 見てない?」
「え…あぁ。なに? やばい奴なの?」
職業柄、敏感に反応する佑介。
「え? いや…知らないけど」
(見舞か…)
操の笑い声にかき消され駐車場の車の音を聞き逃したか…と考える。
「玲か…?」
「玲は自分じゃ運転しないよ」
「お嬢様だもんなぁ…。相変わらずいい女か?」
「どうでもいいだろ」
まったく…とため息を隠さない。
「それより…」
「なに?」
「話!」
「あぁ…。こないだのメールの件だけどさ」
急に口ごもる。
「なにか問題でも?」
「なにかじゃねーだろ? なんだよ、あれ」
「なに? 自分のことなんだから、自分で言えばいいだろって話でしょうよ」
そう。この男は、新しい今の彼女と結婚を考えている。そしてその彼女はどうやら妊娠しているらしい旨を、曲がりなりにも真実との愛の結晶であるひとり娘〈美古都(みこと)〉にうまく話をしてくれと言ってきていたのだ。
「そういう問題じゃないよ」
気のせいか落ち込んだ様子の佑介。だが、取り合う価値もないと真実は、
「そういう問題でしょ。てめーのケツぐらいてめーで拭けっての。あたしの出る幕じゃない。だいたい厄介ごとを持ち込むなよ…ただでさえ思春期の娘に…!」
冷たく言い放つ。
「そうじゃなくてさ…」
話をしたいという割にしどろもどろな佑介に、
「それともなに? あたしに、あんたの結婚、引き留めてほしいとでもいうわけ?」
まさかと思うけど…と、言葉にするのをはばかられていた嫌な予感を口にした。
「だっ、だから…」
言われて急に黙りこくる佑介。
(…図星か)
「じゃ、なに? 妊娠の話は?」
「そうかもしれない、ってだけで…。そうだった、わけでは…」
ばかなの? ばかでしょ、ばかだよね?
間髪入れず、なにも言わせないとばかりに真実は続けた。
そこでチキンカレーが運ばれてくる。
スプーンに巻かれたナプキンを外しながら、
「無駄でしょ? このやりとり、この時間。なにしてんの、仕事しろよ」
言いながら佑介の目の前でスプーンを振って見せる。
「お前、いっつもカレーだな…」
はは…と、笑いを求めるが、
「だからなに?」
と、叱責してチキンカレーにスプーンを差し込む真実。
「ごめん…。ただオレは」
しゅん…とする佑介を一瞥し、
「だからいやだって言ってんじゃん」
カレーを頬張りながら、顔も見ずに答える。
「そんな、おまえ…」
「てめーに『おまえ』呼ばわりされたかない」
「美古都だって…」
「美古都はちゃんと解ってるよ」
苛立ちから、食すペースもいつもの倍だ。
「でも…」
成す術もない。
「佑介…! いい加減にしなよ」
カラン…と、カレースプーンを投げ出し、怒り心頭と腕組みして見せる。
「もう関わりたくないって言ってんじゃん…」
極力抑えて言ってはいるが、その心情は充分に伝わる低い声。
「なに? この茶番。なにしに来た? もうやめなよ、そういうの…。ちゃんと美古都にだって会わせてるし、養育費だってもらってない。あんたの条件は全部のんでる。そっちになんの迷惑もかけてない。これ以上なに? なんなの?『会いたくない』って言ってるあたしの要望も受け入れてよ。ほっといてよ!」
力強く言い聞かせる。
これは離婚当初から続くやり取りだった。
「まこと~」
「情けない声出すな…!」
それでよく刑事が務まるな…と、いつものパターン。
先日の結婚の話で、やっと次に向かう覚悟ができたのか、やっとこのくだらないやり取りから解放されるのかと安堵したのもつかの間、結局ぬかよろこびだった。
(玲の言うとおりになっちまった…)
「…男が、できたのか…」
「バッカじゃないの! 必要ないって言ってんじゃん」
「だったら…」
「あんたも…ね! あんたもいらない。さっさと結婚でもなんでもすりゃいいじゃん。どんどんやりゃいいじゃん、子ども作ればいいじゃん」
水を飲みほし、再びカレーを食べ始める。
「ホントに、もう…ダメなのか」
「ずっとそう言ってきたつもりだけど? まさか、照れてるとかわけわかんないこと言わないよね? 何年経ったと思う? もう10年になる」
「オレは離婚の理由にも納得していない」
「いまさらそこ? 浮気したじゃんよ…」
「あれは誤解だ…!」
「誤解で3回も4回も女が職場に乗り込んでくるのかよ…!」
ぐうの音も出ない。
「もう…ちょこちょこちょこちょこ手出してないでさ、いい加減腰据えな。こんなところに来てないでさ。…ちゃんと仕事して、新しい女作って、子ども作って、こんなところに来ない理由を作れよ。…いちいち前に進めない言い訳するのに、あたしをダシにするな!」
そう言ってカレーを食べつくし「ごちそうさん…」と言って立ち上がった。
「とにかく…ダメなもんはダメなの! いい加減前向いて歩きな」
そう言い捨て、佑介を残して店を出た。
〈オレのなにがダメだったんだ…〉
〈そんなに、オレがダメなのか…〉
〈どうしてもオレじゃダメなのか〉
行きつくセリフはいつも同じだった。もう聞きたくない…真実は胃をつままれる思いで自分の医院へ向かいながら煙草に火をつけた。
「ダメとかじゃないんだよ…」
(ダメなのはあたしだ…。あたしがダメなんだよ、佑介…)
自分はもう、男を愛せない…真実はそう自覚してしまったから、このやり取りすら心苦しくて仕方がない。
(いい加減…諦めなよ。いい加減、解放されな…あたしから)
玄関脇の喫煙コーナーに立ち、道路向かいの喫茶店の窓の向こうで憔悴する元夫の横顔を眺めながら、申し訳ない気持ちを煙に乗せて吐き出した。
     
男嫌いなのは、父親がいないせいだと思っていた・・・・。
(ちゃんと、理由はあったんだよ。気づくのが遅かった…だけ)




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