目は考える

岩波新書に「腸は考える」という面白い本がある。我々のお腹の中に納まっている、あのうねうねとした消化吸収器官のことだ。同書によると、腸というのはじつに精密な認識や的確な判断、それに基づく的確な指令を行うなど、食物についてまさに合理的な思考にも似た活動をしていることがよく分かる。しかも、そうした腸の働きは、われわれの意識に上ることなく、遂行されているのである。

ところが、じつは目もやはり考えるのである。さらには、耳も判断をするのだ。このことはカエルの網膜の研究や、コオロギの聴覚の研究によって裏付けられている。目や耳などの感覚器官というものは、われわれの意識の外で、思考以前の生理的段階で、すでに思考にも似た合理的な活動をしている。

たとえば、メスのコオロギの聴覚細胞は、オスの鳴き声にしか反応しないのである。そのほかにも風の音や葉擦れの音などが混ざって聞こえてきていても、それら偶然的な音は無視してしまい、オスの鳴き声だけを選択的に抽象して聞いているわけである。

またカエルの目は、単に外界から来る光の刺激を中継して脳へ信号を送り出しているだけなのではない。すでに網膜の段階で情報の選択や複雑な操作が加えられているのである。彼らの目は、自分の生存にとって重要なものであるえさの蚊やアブ、天敵の蛇といったものについての情報を選択して見ているのである。

人間のものも含めて、耳や目は、外界から得た情報を選択する際に、すでに精神と同じように情報の価値判断をしていることが分かる。目や耳は、自分の生存や種の保存にとって価値ある情報、生命にとって重要な情報を選択し、偶然的で不要な情報は無視して見たり聞いたりしているのである。K・ローレンツは次のように言う。

「人間の知覚装置の不思議な働きは、まさに(感覚器官の)計算メカニズムの援けをかりて、(外界の)無数の条件に左右されずに、物体の再確認を行うところにある。視覚的領域においてはそのような計算は、すでに網膜で始まっていることがはっきりしている」

「(視覚においては)色彩恒常性やカエルの網膜の働きについての事実が示しているように、偶然的なものを度外視し、本質的なものを抽象するといっても過言でないその転換的働きは、およそ知覚一般の基礎となる働きであり、客観化の基礎である。その際に抽象されるのは、常に変わることなく(外界の知覚)対象に固着している諸特性である」

しかも、われわれが備えている、この外界からの情報を抽象化して再確認する知覚装置の働きは、われわれの意識に上る以前の段階、思考以前の生理的活動のレベルからすでに始まっている。われわれは自身の感覚器官が情報を抽象化する働きを意識化することはできないし、自分で観察することもできないものである。それにもかかわらず、情報を抽象化するこのはたらきは、思考以前の段階で行われるものなのに、あまりにも思考に似た合理的な働きであるため、ローレンツは「擬合理的な働き」とか「無意識的推理」と呼んでいる。

このような、情報を抽象化して再確認する能力こそが、客観的な概念的思考を可能にする主要な前提となっている。頭で考える以前に、目で考え、耳で考えているというわけである。


(参考文献)
・K・ローレンツ「自然界と人間の運命 PARTⅠ:進化論と行動学をめぐって」谷口茂訳、思索社
・K・ローレンツ「鏡の背面:人間認識の自然誌的考察」谷口茂訳、思索社
・渡辺慧「認識とパタン」岩波新書
・藤田恒夫「腸は考える」岩波新書

#エッセイ #感覚 #視覚 #思考

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