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第9話 ショートストーリー「相棒」

1.11月に思うこと

 北アルプスの山々の紅葉はあっという間に松本盆地にまで滑り降りてきた。松本城公園の木々も赤や黄色に色づき本格的な信州の冬がすぐそこまで来ている。ぶどうやりんごといった豊かな実りの秋を楽しんでいる内に季節はもう変わろうとしていた。村山隆二が迎える3年目の信州の冬であった。松本は隆二にとって元々、縁もゆかりもない街だったが、信州に旅した時に篠ノ井線から見た北アルプスの光景に一目惚れして引っ越してきた。

 隆二は今までにも何度も家を変えていた。仕事や会社が変わるたびに住むところも変えるのが隆二の習性になっていた。松本は隆二にとって7個目の我が家になっている。以前は仕事の関係で東京近郊に住んでいたが今回は、はるばる信州の松本に移り住んだ。

 会社生活を卒業し、これからは自分がやりたいことをやっていこうと決めた大きな変更でもあった。11月に65歳の誕生日を迎える隆二は3年前まで東京都心のマンションに暮らしていた。学校を卒業して以来、40年近い月日のほとんどを東京でサラリーマンとして働いていたが、思うところがあって5年前にコンサルタントとして独立した。サラリーマンとしての習性を少しずつ捨てていくプロセスでもあった。会社一辺倒の生活から自分の時間を作るようにもなった。コンサルタントとして2年を過ぎた後、松本に移り住んできた。

 今は仕事が入らなければ多くの時間を松本の自宅で北アルプスの山々を見ながら過ごしている。余裕があればビジネスエッセイを書く。長く外資企業で人事の責任者をしてきたことからその経験で得たことを文章にして残したいと考えるようになったからだ。エッセイの中で過去を振り返る時、一緒に働いてきた人のことも考える。

 「あいつも59歳になったな。」隆二は毎年11月が近づいてくると山中健太のことを考える。村山と健太は偶然、同じ11月生まれだった。だから自分の誕生日が近づくと健太のことを想う。隆二と健太は3年間”相棒”だった。あの頃は2人共、働き盛りで、仕事の夢を持っていた。いつも仕事の後に2人で飲みにいっては夢を語り合った。しかし17年前の11月、新橋で別れたまま、ずっと会っていない。今どうしているのかと思う。

2.出向

 隆二は1980年代前半に学校を卒業すると大手電気メーカーのA社に入った。配属されたのは人事で、その後もほぼ人事としてのキャリアを歩んだ。人事としては色々と紆余曲折のあるキャリアだった。

 A社は当時からグローバルな会社で隆二は工場の労務担当からスタートしたが幸運にも20歳代後半でアメリカに赴任した。帰国すると事業部で経営管理部門に異動したが職場との反りが合わず再び人事に復帰すると、そのまま関連会社に出向し労務の当事者として組合紛争の収束にあたった。次に本社に戻ると今度は戻り先となった研修部門が分社化されて子会社となり、上司と一緒に出向した。しかし、そのことが縁で健太と巡り会えたのは人生のめぐり合わせであった。

 新会社Bは大企業であるA社の子会社で社員教育をすべて引き受ける会社であった。社長はそれまでA社の人事本部長をしていた吉永宏であった。隆二は入社以来吉永とは少なからぬ関係があった。そのこともあり吉永が社長として子会社にいく段階で隆二が選ばれたかもしれないと思っている。隆二が若くして海外赴任を終えて帰国した際、本来ならば人事部門へ戻るところを「俺はどうしても事業部の仕事がしたい。」という希望を叶えてくれたのが吉永だった。そしてその3年後、「やっぱり人事で仕事をしたい。」という無理な願いを叶えてくれたのも吉永だった。吉永は隆二を人事から送り出す時は「一度、現場を知るのはいいことだ。思い切ってチャレンジしてみなさい。」と言ってくれた。また、出戻る時は周囲の冷笑の中で「君には人事が向いている。歓迎するよ。」と言ってくれた人だった。

 隆二は人事本部に戻ったが配属は本社の労務部だった。とはいうものの労務部にいたのは1週間ですぐに子会社に送り込まれた。当時、A社の製品サービスを担当している子会社は大きな労務紛争を抱えており、隆二は本社からの助っ人として出向となった。隆二はそれからその子会社で2年を過ごすことになる。紛争が集結した後戻ったところが研修部であった。そしてその研修部が今度は分社化されることになった。

 新会社のB社はA社の元々の子会社であるD社と本社研修部が1つになって研修、人材紹介、派遣事業を擁する100人近い規模の会社になった。社長の吉永以下、隆二を初めA社から40名近いメンバーが出向した。新しい研修部はA社の研修部とD社の研修チームが統合された混成組織だった。「よろしく頼むな。」と吉永から肩をたたかれた裕二はB社の中で研修企画と事業企画を担当する課長になった。A社には10000人を超える社員がいる。その社員の教育研修を一手に引き受けていたのがB社の研修部だった。

 元々A社には国内だけでもかなりの数の関連会社があった。それらの教育研修ニーズも少なくはなかった。B社の基盤はこのような需要の上に成り立っていた。それは手堅いニーズではあったが、別の見方をすれば本社からのおすそ分けでもあった。大きな組織の中の決められたニーズをすくい上げる仕事で手堅くはあったが大きな成長は期待できなかった。吉永はその中で何か新しくユニークなビジネスを育てたいと事業企画という部署を設けたが、隆二はその先頭に立って働くことになった。

 隆二は会社から2つの命題を与えられた。1つは研修部で導入する新しい研修の企画、導入であり、もう1つは事業企画として新しいビジネスを提案することだった。新しい研修はアメリカで開発された研修を吉永の片腕だった常務が探してきたものだった。それをベースに日本にマッチした研修に作り変えるもので、隆二を中心に数名のチームが日本バージョンの開発を担当することになった。研修は半年の開発期間を経て完成しA社のマネジャー向け研修として大々的に展開された。

 事業開発について隆二は従来からA社が実施していた研修のコンセプトをベースにそれをパソコン上で行えるものにして、よりエンターテインメント性を盛り込んだエデュテインメントソフトにすることを考えていた。エデュテインメントとはエンターテインメントとエデュケーションを融合したもので当時ではまだ新しい概念だった。

3.健太との出会い

 隆二がB社の入ったビルの7階の受付にいくとすらっとした背丈の高い男が傘を持って立っていた。山中健太と初めてあった時のことだ。健太は爽やかなダークグレーの背広に濃紺のネクタイを絞めて、はち切れるような笑顔でペコリと頭を下げた。
「責任者の村山です。今日はわざわざありがとうございます。」

 隆二は事業企画室に新たに人材を採用することにした。事業企画室と言っても内情は隆二が一人の組織であった。既に会社から正式に新しいビジネスゲームの企画が承認され外部組織を使ったソフト開発に入っていた。約半年かけてビジネスゲームを完成できる段階になって、ビジネスを実際に進めるためにはもう1人営業系の人材が必要であった。採用に当たっては1名採用ということもあり、A社の社内募集という形で進められていたが、A社の事業部門に勤めていた山中優子がそれを知って、夫である健太が隆二にコンタクトしてきた。健太は当時、ITシステム機器を販売する会社の営業をやっていたがスペック的にはあっていたので「とりあえず一度お会いしましょう。」ということになった。健太は隆二より6歳若い36歳だった。

 「何故、このポジションご興味を持たれたのですか。」隆二は訊ねた。
「夢のある仕事がしたいと思っています。人生は1回きりですから何か新しいことを生み出す仕事に参加できればと思っていました。そんな時、今回の話を聞きこれだと思ったのです。村山さんはこれまでにないエデュテインメント製品を立ち上げると聞きました。私はITシステムの業界で働いていますからシステムの知識もきっと活きると思っています。」何人かのA社内の候補者にもあっていたが隆二は健太を選ぶことにした。知識的には甲乙つけがたい人もいたが健太の夢を追いたいという気持ちが自分と同じだったからだ。こうして隆二と健太のコンビで事業企画室を進めることになった。

 A社には昔からビジネスゲームを活かした社員教育プログラムがあった。ビジネスゲームとは参加者が企業経営を身近に理解するためにゲームの中で会社経営をおこない、商品の企画、開発、販売、会計、決算というビジネスサイクルを回しながら他の参加者、つまり他社と成果を競うものであった。元々はボードゲーム形式で研修として行われたものを、隆二はコンピューターゲーム化したいと考えていた。隆二がこのことを考えた背景には、ソフトウエア開発ベンチャーをやっているMark Cohenという友人がいたこともあった。Markは隆二がアメリカに赴任していた時、A社にトレーニーとして入ってきた男であった。Markは6年ほどA社で働いた後、カリフォリニアシリコンバレーでIT企業を始めていた。Markとの関係は既に10年近いものになっていた。早速そのコンセプトを相談したところ、Markと意気投合し開発を任せたいと思った。隆二はITの専門家でかつMBA出身のMarkがビジネスゲームを開発することはピッタリだった。

 隆二の企画は社長の吉永をはじめ、新会社の他の役員からも好意的に受け取られた。花形商品である研修をベースにしていることと同時にそれを活かしながら、今までやっていないエデュテインメント分野に踏み出すことも進取の気性があるA社、しいてはB社のカルチャーにフィットしたのだろう。隆二の担当したキャリア開発をテーマにした自己啓発研修が先行して順調に立ち上がっていたことも社内で承認を得るために大いに役立った。

 B社は元々特殊な会社であった。大企業A社の人事の一部が中心となった組織で、その社長にはA社の人事本部長吉永がなった。言ってみればA社の100%息のかかった会社であり、同時に存在意義を見つけなければA社に隷属してしまうような会社だった。吉永は社長として何か新しいことをしなければならないという危機意識も持っていたのだろう。だから吉永は村山のエデュテインメントビジネスゲームという企画に乗った。村山の考えも同じであった。A社に入社したと思っていたのに気がついたら別会社に出向を命じられていた。大企業の大きな力の中では自分の存在は軽く小さいものだということを否が応でも体験した。しかしそうなった以上、何かワクワクするチャレンジをしたいと思っていた。そういう意味で新規事業企画に従事できることは願ってもない機会だと感じていた。

4.ビジネスの立ち上げ

 新しいエデュテインメントビジネスゲームは従来ボードゲームで行っていたものをコンピューター上で再現するものであった。ネットワークを使って実在の参加者と競うこともできたし、コンピューター上の仮想のライバルを相手に1人でゲームすることもできた。前者は従来からの集合研修にも使用できるものであったが、後者はビジネス系ソフトとして広く大人のための知的なゲームとして販売することを想定していた。そのための販売ルートを持っている相手を探すことが隆二と健太の当面の目標であった。

 物販としての販売に関して書籍ルート、ゲームルート、雑誌ルートなどのチャネルを考えた。様々な候補の企業にアポを取ってはプレゼンテーションし、パートナーの可能性を打診した。隆二がビジネス全体のプレゼンテーションをし、健太はエデュテインメントソフトのデモをする。そんなコンビネーションで各社への売り込みをした。健太は明るく爽やかな印象で時に笑いを取りながら魅力的なプレゼンテーションをおこなった。各社を渡り歩くことが数ヶ月経った頃出会ったのが大手新聞社C社であった。C社は新聞社であるとともに出版事業を持っていてこのゲームに大いに興味を示した。C社はMBA関係書籍とのコラボレーションも行いたいといってきた。事業開発室が本格的に動き出してから半年ほど経った頃だった。

 大手新聞社C社とのタイアップは教育業界では少なからず話題となった。C社は新聞の広告欄でも新しいビジネスゲームを大いに宣伝した。当時はまだパッケージソフトが全盛の時代でもあり、その中でエデュテインメントは新しい分野であったためメディアでも度々取り上げられるようになった。

 「どうだ、反応は。」吉永も声をかけてくれる。「はい、出だしはまあまあです。でもこれからですね。物販はきっかけに過ぎません。研修ビジネスの方でいかに今までのものを更に大きくできるかだと思っています。」隆二はそう思っていた。

 B社の中には昔からのビジネスゲーム研修がある。それはA社グループではよく知られたもので多くの社員が経験していたが今回のソフトを使うことで今までのグループの掘り起こしのみならず、もっと大きな括りで日本全体の会社が使い始めるようなビジネスゲーム研修にすることができればと考えていた。B社の中にはこの研修をメインで担当しているグループがあり、吉原という課長がいた。A社からきた村山とは異なり、吉原はA社のグループ会社D社の出身だった。ビジネスゲーム研修を長く担当していて、その専門家と言っても良い人物だった。「吉原さん、研修どうぞよろしくお願いします。」隆二は吉原に頭を下げた。実際の集合研修については慎太郎はもとより、隆二も素人であった。研修の講師としてプロなのは吉原であり、また外部講師を束ねているのも吉原である。彼がこのソフトを気に入って新しい研修に力を入れなければビジネスは伸びていかない。

 隆二と健太は物販としてのソフト販売に力を入れた。出版社としてのC社を見つけると、商品化に向けてC社の担当者と二人三脚で準備を進めた。4ヶ月ほどの準備期間を経て商品を実際に発売することになった。商品が発売されるとC社のマーケティングもあって価格が2万円近い高額であるにも関わらず順調に売れ始めた。本来の社会人教育のみならず、ゲームソフト業界や大学、ビジネススクールなどでも取り上げられるようになっていった。「結構、話題になっていますね。IT雑誌のMから取材のコンタクトがありましたよ。」健太は少し興奮気味で話しかけてきた。「いや、まだまだだよ。」隆二にはまずは吉永が認めてくれた開発費を回収しなければならないという思いが常に頭にあった。

 商品が発売されて2年はあっという間にたった。その間にビジネスゲームソフトは着実に売れていった。元々新しい分野ということもあり何かをベンチマークすることはできなかったが大手の書店やソフトショップなどにいけば、どこでもこのソフトが店頭に並ぶ様になっていた。また、C社はビジネスゲームのお試し版を添付したMBA書籍を発行したり、積極的な販売活動を行ったので販売の拡大に伴ってC社からのロイヤリティも開発費をカバーするまでになっていた。

 一方で研修としてはパラパラと引き合いがあるものの従来からのボードゲームを使った研修がまだ大半を占めていた。吉永や吉永の率いる研修の営業部隊にはサポートを惜しまなかったが実際に営業を行うのは吉永たちであったので現場では思うようにアピールはできていなかった。それに吉永にしてみれば元々手堅いビジネスとして研修をやってきた実績があり、あえてリスクを取って新規のツールを使うことの旨味を感じなかったのかもしれない。ソフトは売れているが従来研修への展開は十分できているという状況ではなかった。

5.人事異動

 新会社が設立されてから4年が過ぎた頃、A社グループの人事異動が発表された。社長の吉永が退任し再びA社の関係会社D社へと異動するというものだった。新規事業としてのエデュテインメントビジネスゲームが導入されてから3年が過ぎていた。社長が交代してしばらくたったある日、隆二は新社長の磯貝に呼び出された。磯貝はやはりA社のある分野の部門長をしていた人だった。「失礼します。」隆二が社長室のドアを開けて入っていくと磯貝は隆二をソファーに促してこういった。

 「村山君はこの会社に来て何年になるのかな。」
「会社設立時からですから4年を少し過ぎたところです。」
「そうか。知っての通り会社も大分安定してきて吉永さんもD社にご栄転になったんだよ。君も色々頑張ってくれているが、そろそろ本社に戻ってもらおうかと考えているところだ。」」「実は健康管理センターで事務局長のポストがあくことになってね。君にはそっちで頑張ってもらいたいと思っているんだ。知っての通り、事務スタッフも10人規模でいるし、関連会社やドクターとのやり取りもしなくてはいけない中々難しいポストでもある。君のステップアップのためにも悪くない話だと思うよ。やって見たらどうかな。」

 隆二は急な話にびっくりした。「でも今の新規ビジネスにもう少し時間が必要と思います。」隆二はそう答えていた。「今のビジネスは研修部の方に引き継いでもらおうと考えているよ。我々は本来A社の教育を担当するのが本分の会社だからね。対外的なビジネスもいいがそれはあくまでサブ的なものだと思うよ。」磯貝は吉永が考えた新規ビジネスのコンセプトを暗に否定しようとしていた。「少し考えさせていただけませんか。」隆二はそう言ってその場を辞した。

 隆二はどうすべきか悩んでいた。サラリーマンだから人事異動はしかたがない。でも今の仕事はまだ立ち上がっていない。もう少し粘りたいが社長からの話は業務命令だ。これを断ることはできないだろう。もし断るとしたら会社を辞めるということだ。辞めるのか会社の決めた新しい仕事を取るのかの選択肢しか俺には残っていないだろう。では新しい仕事は自分がやりたいワクワクすることなのか。隆二は自問自答した。「俺はA社に残ることが大事なのか。自分のやりたいことにチャレンジするのが自分流なのではないか。」隆二はそんな気持ちになっていた。

 何日かが過ぎたある日の夜、隆二は健太を呼び出した。「実はな、俺は本社に戻れと言われたよ。」「えっ、どういうことですか。」
「新事業開発室は研修部と統合するそうだ。」「だから健太も研修部に異動して貰わなくてはいけない。」
「ゲームはどうするんですか。」「研修部の柳谷部長が担当することになると思う。多分、健太の上司になるだろう。」
「そんなっ。。。」「で村山さんはどうするんですか。」
「俺か、多分A社にはいかない。」そういうと隆二と健太はしばらく黙り込んだ。

6.お互いの身の振り方

 結局、隆二は秋山の内示を断り、A社がその時推進していた早期退職制度に手を上げた。ちょうど45歳になって応募資格ができたことも背中を押した。そして会社が認めた4ヶ月という猶予期間を利用して外資の医療機器会社F社に転職をすることになった。

 隆二の退職がオープンになった時、まだ45歳といえ資格ぎりぎりで早期退職に応募したので周囲の者はざわざわした。人事で同期の吉村は隆二を呼び出し「村山、目を覚ませ。」と真剣に引き止めた。B社の社長の磯貝に最後の挨拶に行った時、磯貝はこういった。「1年後に君がどうなっているかが楽しみだな。あの時断ったことを後悔しなければいいね。」

 一方、健太は研修部に異動になりエデュテインメントソフトを引き続き担当した。ソフトはその後もC社が販売を続け、高額なソフトとしては予想以上のヒットを記録した。しかし、研修ツールとしての活用は旗振り役がいない中で進まなかった。従来から行われていたエデュテインメントソフトを使わない集合研修が引き続き行われていった。

 健太は研修部に異動したものの、元々企業の教育研修の分野は初めてだった。彼の持っているITの知識は通常の研修では活かすことができなかったし、一方でエデュテインメントソフトは全体の一部に過ぎなかった。A社の息のかかった者ばかりのB社で新参者の健太は尚更、苦労したかもしれない。隆二が会社を去って半年ほどすると健太も会社を辞めることになった。趣味で続けていたサッカーのネットワークを活かして、またエデュテインメントソフトを使った研修を活かしながら地域スポーツの組織運営や自治体のスポーツ関連イベントの運営に関わる会社を立ち上げた。折しもJリーグに啓発され地方自治体ではスポーツ組織のビジネス化への関心が高く、健太の会社も良い滑り出しをしたようだった。

 しかし、健太の会社の好調は長くは続かなかった。起業して2年ほど経つとJ リーグバブルが収まってくるのと同時に地域スポーツ組織の運営熱も少しずつ冷めていった。その中で自治体の大きなイベントに絡んで行った多額の投資が回収できなくなったという話をのちになって共通の知人から聞いた。

 隆二がA社を去ってから入社したF社はアメリカの医療機器メーカーだった。隆二が以前から人事として面識のあったヘッドハンターが紹介してくれた会社だった。隆二は若い頃にアメリカに赴任していたのである程度英語は話せた。そんな関係からか外資に入ることに抵抗はなかった。むしろ、新しい世界に挑戦してみたいという気持ちのほうが大きかった。A社で過去に労務、海外人事、研修、ビジネス企画を経験していたことが功を奏したのか、人事トップとしてのポジションを得ることができた。

 F社は300人ほどの規模の外資企業だった。人事は4名体制で隆二はそのチームを率いることになった。隆二にしても初めての外資企業である上、小さいながらも日本法人の人事トップとして本社人事にレポートすることは少なからずチャレンジであったが必死に食らいついていった。

 しばらくは初めて体験することばかりで無我夢中で対応してきたので自分が去ったあとのB社のことや健太の動向は話には聞くものの深く関心を持つ余裕もなかった。F社に入って1年ほどした頃、一度健太とあったが、その時は威勢のいい話をしていた。更に2年が経とうとしている頃、共通の知り合いから健太が隆二に会いたがっているという話を聞いた。隆二は久々に健太に連絡を入れて会うことにした。

7.別れ

 11月初旬、金曜の夕方の新橋は人でごった返していた。機関車広場の南側にある交番前で隆二は健太が近づいてくるのを見つけた。「よおっ」右手を上げると「お久しぶりです。」と健太はいつもの爽やかな笑顔で近づいてきた。「あれっ、少し老けたな。」と隆二がいうと「そおっすかね。やだなー。」と健太。

 「ちょっと向こうの方へ行こう。」といって烏森の飲み屋街の方へ歩いていった。昔2人でよく通った焼き鳥屋がある。「ひとまず乾杯しよう。」ビールを頼みながら隆二は健太の顔を改めて見る。初めてあった時は隆二が42歳、慎太郎が36歳だった。数年の歳月で健太の髪には白髪がちらほら見えてきた。その白髪は年のせいだけではないように思えた。

 「元気でやっている?」隆二が聞くと「エエ、まあ、なんとか」と答える。「会社が続けられなくなって今は友達の仕事を手伝っているんですよ。」少しはにかんだような顔で健太が答えた。「そうか、大変だったな。」「ところで亮平くんはどうしてる?」というと健太は少し困ったような顔をしながら「真美と実家に戻っています。俺もたまに会いに行きますけどね。」何か事情があるようだが、隆二はそれ以上突っ込んだことを聞けなかった。

 「そうか。」亮平くんとは健太の長男で真美は奥さんだ。亮平くんは幼稚園に入るくらいの年になっているはずだ。「この間あったのはいつ頃でしたかね。」と健太が話題を変える。「確か、2年前のやっぱり11月でしたよね。」と健太が続ける。

 隆二は前回のことを思い出そうとしている。確か健太は大きなプロジェクトが入ったといって景気の良い話をしていたはずだ。健太の地元の市とタイアップしてビーチバレーか何かのイベントで街の広場を使ってイベントをおこなう、そういった話だった。

 前回会った以降、F社が日本企業を買収して新しく大きくなった会社で隆二は人事の責任者として休む日もなく働いていた。仕事は恐ろしいほど忙しかったがなんとかこなしていた。そして健太はうまくいっていると思い込んでいた。

 「あの頃が懐かしいなあ。」健太が急に遠くを見るような目をしていった。「会社終わってよく一緒に飲みに行きましたよね。」「そう、渋谷にいった時、飲む前のちょっと時間つぶしとかいってパチンコしましたよね。そしたら、ほらあっという間に大当たり。それで豪華に飲みに行ったの、覚えてます?」「あの頃、村山さん、神がかってましたよ。だいたい話はいつもいい方に流れていくし、俺も本当に楽しかったなあ。」

 健太は昔話をたくさんした。そして何度も「懐かしいな。」と言う言葉を口にした。一通り食べ終わると2人は外に出た。「もう一軒行こうか。」隆二が誘う。いつもの健太ならにべもなく乗るところだがその日は違っていた。少し考えるようにした後、「ありがとうございます。でも今日はやめときます。」と健太が答えた。隆二も少し間をおいて「そうか。」と答えた。

 「今日はありがとうございました。仕事、頑張ってください。」新橋駅で銀座線ののり口のある地下に向かう階段の前まで来ると健太はそういって右手を差し出した。「そっちも元気でね。また会おうよ。」隆二は手を握った。

8.振り返る日々

 結局、隆二は転職したF社で10年以上働くことになった。隆二には外資という環境や医療系の文化があっていたのかもしれない。300人という外資としては標準規模の会社はその後、日本の会社やいくつかの外資企業を買収して1000人規模の大会社になっていた。企業買収や統合という目まぐるしい変化の中で隆二は生き残った。

 その後、60歳を前に会社をやめ、人事コンサルタントになって東京から長野県松本に転居をした。今は忙しい外資の世界を離れ今までのことを振り返る余裕もできてきた。隆二の日常は豊かな松本の自然に囲まれながら時間があればビジネスエッセイを書いている。ビジネスに関連したテーマのエッセイでは過去に経験した様々なことが大いに役に立っている。その中で必然的に過去に関わった多くの人との思い出も蘇ってくる。

 そして隆二は11月がくるといつも健太のことを考える。健太との3年間は隆二にとっても特別な時間だった。A社での時間も外資のF社での時間もどちらかといえば大きな組織の中でサラリーマンとして歯車の中で頑張った時間であった。一方、B社での時間は組織内ではあったが、たった2人の弱小組織である反面、自分たちの夢を追求できた時間であった。日々、自分たちの責任を背負い、1つ1つが結果となって現れた充実した日々だった。しかしそれは突然の人事異動という形で終わった。

 最後に健太に会った時、健太は明るく振る舞っていたが本来の健太ではないような気がした。健太はB社を去った後大変な目にあっていたのだろう。最後に会ったあの日「何か俺ができることがあればいってくれ。」という言葉を何故かけなかったのか。健太との3年間、楽しいことも辛いことも一緒になって頑張ってきた。2人は相棒だったはずなのに、あの時、自分は健太に何も救いの手を差し出さなかった。そしてその後の健太の辿った人生は知る由もない。

 隆二が会社を辞めるといった時、健太は一つも文句を言わなかった。それどころか、最後の日には海外製らしいクリスマスの置物を記念にくれたことを思い出した。それは健太と似合わないほど、可愛らしかったことを覚えている。その時は何ができたかわからない。しかし、新しい会社で日々をこなす大変さに追われ窮地に立った相手を思いやる心のゆとりもなかった。「あの頃は相棒がいた。」と振り返る今は狭量だった自分と対面する時間でもある。長いサラリーマン生活の中で輝いていた頃の思い出は楽しかった時間とともに苦い後悔も運んでくる。     了


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