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末寺の末事 111

 ひとつの仮説ですけど、自由とは何なのか?自らの「何」に由って「どう」なるのか?考えてみると、僕の思考は自「信」由「足」に着地しました。
 自らの「信じるところ」に由って「満ち足りる」ことを、自由であると僕らは感じているのではないでしょうか?

 だとすると、何を信じるのか、そして、その信じたものを容れておく器は何か、どのくらい量で満たされるのか、この辺りに自由の正体が顕かにされそうです。

 具体例をひとつ、自由の国アメリカの大型バイク、ハーレー・ダビッドソンこそ自由の象徴であると信じて、ガソリンタンクが満タンなら、ハイウェイを気儘にクルージングすることもできるし、その恵まれた自由に対する「恩」に「感謝」ができそうです、…エンプティランプが点灯するまでは。

 だから、困るんです。信じているものが、簡単に無くなったり、枯渇するようでは。そもそも信じることができないのです。

to be continued



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