たいじん

【非僧非俗の空想坊主】 空想家、宗教家、自由業、世捨人、逃げ組、下等遊民、厨煮病、奇人…

たいじん

【非僧非俗の空想坊主】 空想家、宗教家、自由業、世捨人、逃げ組、下等遊民、厨煮病、奇人、変人、元クライマー、自転車愛好家、掃除好き、ミニマリスト、シンプリスト、チーパー、A(C)、負けず嫌いの平和主義、孤独を好む寂しん坊、破戒僧、乞食僧、愛煙家、酒呑み、 …的なヒト科のなにか

マガジン

  • 続々 しあわせます。

    私なりの『しあわせ』について、更に綴ってみました。 【幸福論】 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E8%AB%96

  • 続 しあわせます。

    私なりの『しあわせ』について、重ねて綴ってみました。 【幸福論】 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E8%AB%96

  • しあわせます。

    私なりの『しあわせ』について、綴ってみました。 【幸福論】 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E8%AB%96

  • うまくいかない

    人生が『うまくいかない』ことについて、自分なりの気づきや思うところを纏めてみました。

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いきづらさらぼ

人生の自由研究として『生きづらさ』をテーマに、日々想うところを散文的に綴っていくだけの、雑記のような書き物やなんやかんやにしてみようと思い、 それなりに書き溜まったなら、それとなく整理して分類するつもりなので、結果的に、いつか誰かの『生きづらさ』が、少しでもフッと楽になる為に、適当な読み物やなんやかんやなんかに、なってしまえば本望オーライ…、 と、いうのは詭弁で、要するに、自分用の思考整理と覚え書き的な意味の方が多分にあって、自己満足の萌えカスの掃き溜めやなんやかんやに、

    • 末寺の末事 113

       投稿はほぼ毎日続けてるけど、大仕事も終わって後片付けに翻弄され、日常ペースに戻った実感も乏しく、書くことが行き詰まっていた。  一世一代の大きな法要行事に忙殺され、煩悶としている間に書き溜めたモノを、ただ規則的に吐き出しているだけの作業になっていて、noteで他人様の記事を読む行為すら、心のうえを滑ってゆく流し読みみたいになってしまっていて、勿体無い。  インプットとアウトプットのバランスも体調も生活リズムも、グサグサに乱されて、なかなか戻れないのだが、進みたい方向が見え

      • 末寺の末事 112

         みんな、何を信じて、それに満たされようとしているだろう。  それは、パッと失くなったり、フワッと消えたり、しないだろうか。  それが、本当に満ち足りることって、あるのだろうか。  満ち足りて穏やかに安らぐことがなければ、「恩」に報いる「感謝」の念がなくても不思議はない。すべては当たり前の世界の予定調和だと思いたいし、信じたい。その信じた当たり前に満たされてるうちは安心してられるから、「恩」だって「感謝」だって、どうでもいい。当たり前なんだから。面倒くさい。  信じたものが

        • 末寺の末事 111

           ひとつの仮説ですけど、自由とは何なのか?自らの「何」に由って「どう」なるのか?考えてみると、僕の思考は自「信」由「足」に着地しました。  自らの「信じるところ」に由って「満ち足りる」ことを、自由であると僕らは感じているのではないでしょうか?  だとすると、何を信じるのか、そして、その信じたものを容れておく器は何か、どのくらい量で満たされるのか、この辺りに自由の正体が顕かにされそうです。  具体例をひとつ、自由の国アメリカの大型バイク、ハーレー・ダビッドソンこそ自由の象徴

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        いきづらさらぼ

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          末寺の末事 110

           何か脱線というより、もはや線路を走ってはいないような気もして、話に脈絡がない状態が続くが、これがそのまま、自分の精神状態の素直な記録なのだから、悪しからず。  さて、妄想はこれくらいにして、ちょっとは具体的に考えろよという自制心を、更に無視して先に進む。というか、深く潜ぐってみる。  自由について、思うんです。魅力的ですよね、自由。響きが良い、某ファストファッションブランドみたいですが、何かワクワクさせるものを感じます。  もしも自由だったら、自由が感じられる時は、「

          末寺の末事 110

          末寺の末事 109

           空しくないのだろうな。大きなお世話なのだろう。「かわいそう」な僕にはよく解らないが、そういう生き方で構わない人には、それを選ぶ権利があるし、誰も邪魔はできないと思う。  自分が「かわいそう」な立場にさえならなければ、意味や目的など必要ない。むしろ、それがその人の求める意味だし、望む目的なのだろう。  どうしてこんな構造になってしまったのか、とか、分析してもあまり意味がない気がする。そもそも、宗教や信仰についての意味や目的が、本来のあるべき姿と乖離しているのだし。それがそ

          末寺の末事 109

          末寺の末事 108

           双方向なのでコミュニケーションというのは、送信側も受信側も、その目的を共有しないと伝わり達したことにはならないんだけど、先ずは送信側の目的意識が、はっきりしていなけりゃ話にならない。次いで、受信側も目的を共有するという目的意識ぐらい、しっかりしていなけりゃ話にならない。  これ、寺を取り巻く現状の環境で、実際的に上手く機能しなくなってきているコミュニケーションの有り様なんじゃなかろうか?  何で玉子を買いに行ったのかよく解らないけど、何だか昔からそうしてるっぽいし、何よ

          末寺の末事 108

          初めて寄席ってのに行きました。落語聞いて、もんじゃ食って、ホッピー飲んで、浅草だなぁ~♪

          初めて寄席ってのに行きました。落語聞いて、もんじゃ食って、ホッピー飲んで、浅草だなぁ~♪

          末寺の末路 107

           そんな馬鹿げたことしないし、有り得ない。って、本当にそう言えるだろうか。  実際に意味や目的など、大して気にも止めずに、日常の一般的な宗教行事・イベント・仏事や法要など、信仰の現場にいやしないか?  朝目覚めて突然遠くのスーパーに理由もなく玉子を買いに行ったのと何が違うのか?  自分は何でこんなことをしたのだろう?とは考えないものだろうか?  考えないから、面倒くさい現実があるのだろう。考えるのも面倒だし。  自分が考えて、理解しなくても、そこには歴として存在する

          末寺の末路 107

          末寺の末事 106

           寺は仕事じゃないんです。仏教の信仰や宗教活動はビジネスではない。だから、利益は関係ない。目的など大した目的ではない。という見方もできる。  そういったコミュニケーションは、なるほど 何というか、芸術性も高くスピリチュアリティを感じさせる世界観があり、それっぽい人々をそれなりに魅了していくのだろう。  だけど、よく解らない。解らないから良いんだろうけど、ツウには通じても、コミュニケーションとして、広く一般的に繋がり続けていくことは難しいだろうと思う。  だって、よく解ら

          末寺の末事 106

          末寺の末事 105

           ない気がする。  全てではない。確かに、目的意識を持ち、勿論だが理解も深め、研鑽を怠らず、コミュニケーションに努めている部分もある。と思うし、思いたい。  けど、往々にして、ない気がする。寺やその宗教活動の現場といっても、ほとんどが、葬儀や法事、ごく稀に法要や他の儀式的な縁があるかもしれないが、そこに目的意識を明確に持って臨む者の姿はどれほどだろう。  一般人はそのほとんど、あまつさえ僧侶の形をしたものでも、「正しく」目的を意識できているかと突き付けられたら、かなり怪

          末寺の末事 105

          末寺の末事 104

           運動にしても、歌や踊りにしても、書画にしても、飲食にしても、そのもの本来の姿は本能に近いものを感じさせ、芸術的な美の追求や、精神的な崇高さの保持などが、その心(意)として体現(口・身)されるが、そこにコミュニケーション(共有・伝達)を発生させると、目的(利益)が求められ、その事によって、事業性・商業性のようなものを意図させてしまうという仮説。  何かややこしいけど言わんとすることは伝わるだろうか?  例えばこの件も、文字を使って、僕が仮説を弄くり倒している間は、落書き(

          末寺の末事 104

          末寺の末事 103

           何かを行うということには、目的があります。目的がない行いには、無目的という目的があります。  大抵の場合、この目的とは利益・メリットをイメージさせられるのですが、コミニュケーションという、心(意)の共有・伝達という言動(口・身)=行い(業)を、これに当て嵌めるとすると、そこには論理的合理性など、かなり現実的な意味を求められるような気がします。  要するに、共に有したり、伝え達するというコミニュケーションには、そうしようとしている側に、そうすべき(または、そうしようとして

          末寺の末事 103

          末寺の末事 102

           コミニュケーションについて、ふとあることが気になったのです。  知覚や感情・思考の共有や伝達については、様々なケースに於いて、多種多様なジャンルがあって、一様に分析するのは困難かもしれませんが、ひとつの視点として、得意不得意、得手不得手、という部分に着眼してみると、自分の性分とか癖のようなものが垣間見えてくるのではないでしょうか。  僕自身、飲食を通じたコミュニケーションなんかは特に強い思い入れを感じる傾向が見られ、これは偏に環境や教育による影響がかなり大きいのではない

          末寺の末事 102

          末寺の末事 101

           コミュニケーションのことを、ずっとコミニュケーションと間違って認識していたくらい、コミュニケーションが苦手な僕ですが、世間でも最近は「コミュ障」という言葉を新設してまで、コミュニケーション下手への理解を深め、認知しようという動きがあるとかないとか。…ないか(笑)。  ですってー。  いや、だからどうって話でもないのですが、お寺という環境もそれを取り巻く組織も、そこにいる人間同士のコミュニケーションで、成り立ってますから、一考して損はないかと…。 to be contin

          末寺の末事 101

          Writers-High

           長距離走と似ている。走ることが好きな人もいて、嫌いな人もいる。しかし、走って肉体に負荷をかけるという行為は、当然ながらキツいし実に疲れる。そのような部分のみを好む者はいるだろうか?先ず、いないと思う。その疲弊に相応しいか、若しくはそれ以上に得るものがあってこそ走れるワケであって、仮に、走者にとってそれが単なる好き嫌いを超越した感覚であったとしても、その行為へと誘い突き動かし足ら締めんとする、動力のようなモノの存在を否定し得ない。こと運動という分野に於いて、直感的にその類いが