知識が馴染むまで

 昨日、短編本を作り終えた。今回の内容は、人の不完結さ・弱さのようなものについて考えを深め、その上で一歩の踏み出し方を考えてみようというものだ。人の弱さを嘆くものでもなく、「人は弱い生き物だ」と感傷的になるものでもなく、そういった性質を備えて人は生きてきているのではないか、ということを考えている内容だ。ある知見をもとにすると、人は根本的な部分に不完結さや弱さを備え、そのおかげでうまく生きられてきているとも考えられるのだ。

 短編本を作っている間は、心がざわついている。なぜかというと、自分の考え方や動き方と照らし合わせながら、これでよかったんだとか、もっとこうした方がいいのかなとか、あの人はだからうまくいっているのかとか、少しおおげさだが生き方のようなものを振り返りながら作っているからだ。テーマがテーマなので、自然とそうなる。

 そうして作り終えた後は、新たな知識や考えを携えて、「よし、こうしよう」と気持ちを新たにしているのだが、そんなにすんなりいくものでもない。なぜなら、今までの考え方や動き方が既に自分の中にあるからだ。また、自分自身の性質上、どうしても受け入れ難いものもある。例えば、今回の短編本では、考える時や動く時にあまり自分基点になりすぎずに、状況や周囲とコラボレーションしながら考えたり動いたりしようよ、それが人の性質であるとも言えるのだから、というような内容になっている。つまり、すごく大雑把に言うと、フットワークや一歩一歩を軽くしようというものだ。

 しかし、残念ながら僕は一歩一歩が軽くない。自分で考えて納得しないと動けないし、やる気も起きない。でも短編本作りを通して考えた限りは、もう少し一歩が軽い方がうまくいきそうだ。いい毎日が待っていそうだ。ではどうするか、いや、どうなるか。まずは頑張る。すると空回りする。

 そこで調整に入る。

 知識とは自分の考え方や言動、なんなら佇まいにも影響を与えるものだと思っている。しかし、自分に合う知識と合わない知識というものはある。合う合わないとは、良い悪いではなく、好き嫌いや得手不得手に近いもののように感じている。例えば先ほどの話で、おそらく生まれながらに一歩が重く慎重な僕にとって、軽やかに一歩を踏み出すというのは、不得手な知識になりそうだ。そんな僕が、その考えをいきなり取り入れようとすると少し空回るのだ。しかし、どうもその考えを基に動いてみた方が楽しくなりそうだぞ、というイメージは間違いなくある。

 調整に入るというのは、得た知識を自分の考え方や動き方に、どの程度取り入れていくかを調整するということだ。世の中の様々な知識には、それぞれ正しい側面があるのだろう。中には真理に近いものもあるのかもしれない。でも、自分に合わないのであればしょうがない。けれども、それを取り入れて少しでも良い方向に進みそうなのであれば、どうにか少しでも取り入れてみたいということだ。使う場面を選んだり、心に置いていく程度に留めたり、そんな調整をしながらいい携え方を見つけていくという感じだ。

 中には、自分が置かれている状況に合わない知識や考えもあるだろう。例えば、ミヒャエル・エンデの『モモ』を読んで僕は反省した。時間の使い方を重視しすぎるがあまり、周りの人の豊かな時間を奪ってしまってはいなかっただろうか、なんなら自分も本当にいい時間を過ごせていると言えるのだろうかと。それから時間の使い方をおおらかにしようとした。しかし、現代社会は速い。時計やカレンダーをもとに綿密にスケジューリングされて世界は動いている。それに抗うことは、僕一人ではどう考えても無理だ。そして僕も、割と忙しくしている方が性に合っている。だから、せめてプライベートな時間だけはあまり時間を気にしないようにしたり、周りの人にもせわしなく接したりしないようにしようという程度に留めた。

 知識には、その人の性質や置かれた状況に応じたいい使い方がおそらくある。知識をいい感じに馴染ませることができれば、できることやうまくいくことが増えていくはずだ。これから僕は、少しの馴染ませ期間に入る。決して囚わることのないように気をつけながら。

(吉田)

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