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未来と今とターミネーター

それはあなたが何度試しても変わらないよ。
だって一番の原因は、あなたなのだから。


「ターミネーター」という作品はご存知だと思う。
アーノルド・シュワルツェネッガーの出世作にして、続編である二作目が最高傑作と言われるめずらしいタイプの映画で、自我をもった人工知能スカイネットが、核を作動させ、人類との戦争に挑む。
その人類のリーダー、ジョン・コナーとその母の抹殺に送り込まれるターミネーターとそれを阻止したい人間との闘いを描いている。

一作目はジョンの母抹殺を受け、用心棒に人間の兵士(この人がジョンの父)、殺し屋としてシュワルツェネッガー、二作目はシュワルツェネッガーを用心棒、殺し屋として新型ターミネーターを送り込む形で作品は、未来の救世主の生命をかけた闘いというストーリーだ。


一作目、プレス機でシュワルツェネッガーを叩き潰し、勝利するも工場内に(未来の産物である)腕が残ったため、技術革新も早まり、彼らが来た未来に近付いたままになってしまい、二作目の敵は液体金属だったので溶鉱炉に落とし、辛くも勝利するも、未来からの産物である自分が今に残るのはリスクとシュワルツェネッガーも溶鉱炉に沈む。

ジョンと母の命は守られ、人工知能 スカイネットの原型も作中で破壊し、未来からの産物もなくなったため、その未来に引っ張られることもなくなった。
未来は誰にもわからない、じぶんの手で作っていくものだ。
と締めくくり、映画は終わる。
めでたし、めでたし。


ほんとうだろうか?
いや、まだだ。

そう、未来の自分が指揮官として送り込んだ兵士と母の間にできた子がじぶんなのだから、じぶんこそが未来の産物なので、ジョンはシュワルツェネッガーと共に溶鉱炉に沈まなければ、あるいは一作目で父となる兵士を送り込んではならないのだ。

じぶんの存在が核戦争の未来を呼び込みながら、その未来では生き残る人類の救世主でもあるという矛盾。

ジョンを守らなければいけないのは、ほんとうに人類か?人工知能スカイネットではないのか?

そういうところも含め、用心棒と殺し屋とターゲットの単純な構図の話しに時間軸を絡めて、どこか矛盾を残すことで、多くの人が想像できる、したくなるすき間を残したことが、ターミネーターという作品が今も愛されていて、今も撮り続けられている理由のように思う。


最後に個人的な話しをすると、初めて泣いた映画は、「ターミネーター2」で、シュワルツェネッガーが溶鉱炉にじぶんで落ちていく前に話した「人がなぜ泣くかわかった。 俺は涙を流せないが。」は子どもの僕の心に響いた台詞だった。

何も感じないが故の強さから、何かを感じるが故の強さに作中で変化していくところに、感情移入したのかもしれない。


今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
今の社会の人工知能のイメージは、ターミネーターのスカイネットのイメージを引きずり過ぎですよね。





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