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1+1=10である(「現実はいつも対話から生まれる」読後レビュー)

※本文はWEBライティングのセミナー講評で落選した記事を試しに投稿したものです

1+1はいくつだろう。

特に悩むことはない。もちろん1+1=2だ。
でも実は1+1=10ということもできる。

何を言っているのかと思うかもしれないが、トリックは単純。

10進法と2進法のどちらで計算しているかによって、答えの表記が変わるというだけだ。10進法でいう2と、2進法でいう10は同じなので、結局は1+1=2と同じことを言っている。

しかしこういう「見方が変われば表記が変わる」だけの問題も、現実に置き換えた途端、「それだけのこと」ではなくなってしまう。

例えば先日、大学入学共通テストへの英語の民間試験の導入が延期された。
様々な理由があるのだろうが、私のSNSでのタイムラインだけを眺めれば、延期を喜ぶ声に溢れていた。もちろん一部、賛成派の声もあるものの、それらのコメントにはたくさんの批判コメントが寄せられ、気が付けば反対のムードとなっていく。

私個人としては、正直あまり情報を集めておらず、賛成も反対も言える状況ではない。しかしタイムラインや周囲の反応を見るに、「何となく」延期で良かったのではないか、と思ってしまっている。

しかしこの例について、どの解釈が正しいかどうかなんてことは「どうでもいい」。
大切なことは、1+1が2や10であったように「復数の解釈がある」ということであり、それらは2進法や10進法のような「見方によって異なっている」ということだ。

唐突だが一つ、書籍を紹介したい。社会構成主義と呼ばれる考え方について解説をしている「現実はいつも対話から生まれる」という本だ。先日組織開発学会に夫婦で来日していたことで話題になっていたガーゲン夫妻による著書で、社会構成主義の入門書として知られる。ここから先は、この書籍を基に、少し「社会構成主義」について説明をしながら考えてみたい。

さてまず書籍では、重要な指摘として「私たちが現実だと思っていることはすべて社会的に構成されたもの」だと書かれている。これはどういうことだろうか。書籍で提示されている事例に、を利用してみる。

まず思考実験として、「あなた」が世界中の様々なバックグラウンドを持った人の前に立っているとする。そこで「あなた」を見ている人びとが、「あなた」を観察してどのような人物なのかを発表してもらう。

試しに私が前に立つことを想定してみよう。
そうすると、生物学者からすれば私は「哺乳類」だ。教師からしたら「嫌なタイプ」かもしれない。両親からすれば「かわいい息子」であり、美容師からしたら「微妙な髪型」と評されるかもしれない。

つまり「私」とは、私を見ている人のバックグラウンドによって、様々な意味付けをされる存在である。そこには確かに私はいるが、私がどのような人物であるかは定まっていない。「現実だと思っていること」は、すべて私と相手、もっと言えばそこを取り巻く社会によって構成されている。

冒頭の例に戻れば、「1+1=2である」というのは、私たちが10進法の世界に慣れ親しんでいるから成り立つ事象であって、2進法の世界に慣れ親しんでいれば1+1=10と答えるほうが自然だ。

他にも、民間試験の話に戻れば、それはある社会にとっては間違っていて、ある社会にとっては絶対的に必要なものだ。民間試験自体が間違っている、ということはない。そこに「間違っている」という意味を構成しているのは、議論している人びとであり、その関係の中から意味が生まれている。

「社会構成主義」では現実があるかないかわからない、とは考えない。現実は確かにある。今日も道を歩いていれば、高い車が走っていたのだろうし、もしかしたらどこかのモデルやプロスポーツ選手とすれ違っていたかもしれない。けれど、免許も持っていないし、テレビも大して見ない私にとって、それらの事象は意味がない。

同じ日に同じ場所で、車が好きな人が歩いていれば、レトロな装いの限定ものの車を見て感動するかもしれない。大好きなプロ野球選手とすれ違って、思わず握手を求めているかもしれない。車もプロ野球選手も存在している。しかし人によってその意味が異なる。そしてその意味は、自分たちが所属している社会によって構成されているのだ。

確かに民間試験は導入したら、大惨事を巻き起こしていたかもしれない。延期したことは正解だったのかもしれない。

しかしそう思う私のこの「感じ」はどのような社会によって構成されているものなのか。1+1と問われたとき、どんな前提に立って問われているのかを考えるように、タイムラインに流されず、自問自答をしていくことが重要ではないだろうか。


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