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ズワルテンダイクと杉原千畝が救ったユダヤ人:キュラソービザと命のビザの歴史と意義

第二次世界大戦中にユダヤ人の命を救ったオランダの外交官ヤン・ズワルテンダイクと日本の外交官杉原千畝について、彼らは、キュラソービザと命のビザという二つの特別なビザを発給して、数千人のユダヤ人をナチスの迫害から逃れさせました。

この歴史的な出来事は、日蘭の絆を深めるとともに、多くの人々に感動と教訓を与えています。

キュラソービザとは

まず、キュラソービザとは何かを説明しましょう。キュラソービザとは、第二次世界大戦中にオランダの外交官ヤン・ズワルテンダイクが発行した、南米のオランダ領キュラソー島への見せかけの「目的地ビザ」です。それはズヴァルテンディクが記載したパスポートへのノート(メモ)であり、オランダ領西インドにあるキュラソー島への正式な入国査証ではありませんでした。

このビザは、ナチスに迫害されていたユダヤ人難民にとって、日本を経由して他国に逃れるための重要な手段でした。ズワルテンダイクは、ユダヤ人の身分証明書などに「入国ビザは不要」と記入して、公印を押しました。このビザは1940年7月から8月にかけて、約2,345枚発給されました。

キュラソービザを持っていたユダヤ人は、日本の外交官杉原千畝から「命のビザ」と呼ばれる「通過ビザ」を受け取ることができました。杉原は、キュラソー島が最終目的地であることを確認した上で、日本を通過することを許可しました。このようにして、数千人のユダヤ人がナチスの迫害から逃れることができました。

なぜズワルテンダイクはキュラソービザを発行できたのか?

では、なぜズワルテンダイクはキュラソービザを発行することができたのでしょうか?当時のオランダはナチス・ドイツに占領されていました。1940年5月10日から5月17日までの戦闘の後、ドイツ軍はオランダ軍に降伏を強いました。ロッテルダムへの爆撃が決定的な要因となりました。オランダ政府はイギリスに亡命し、亡命政府を樹立しました。ドイツ占領下のオランダでは、ユダヤ人やレジスタンスなどの迫害が行われまし
た。オランダは1945年に解放されました。

キュラソービザを発行できた理由は、ズワルテンダイクがオランダの名誉領事(臨時)としてリトアニアに駐在していたからです。彼は1940年6月にナチス・ドイツに占領されたオランダの亡命政府から、リトアニアのオランダ領事に任命されました。
しかし、彼はリトアニアのオランダ大使館には属しておらず、オランダの外務省とも連絡が取れなかったため、自分の判断でキュラソービザを発行することにしました。彼は、キュラソー島への入国許可が得られる見込みがないことを知っていましたが、ユダヤ人たちに希望を与えるために、公印を押した「目的地ビザ」を作成しました。彼はこの行為を秘密にするように注意し、ナチス・ドイツやリトアニア政府に知られないようにしました。彼の勇気ある行動は、多くのユダヤ人の命を救うことにつながりました。

キュラソービザを発給されたユダヤ人の生存率に関する正確な統計は見つかりませんでしたが、一般的には、キュラソービザと命のビザを持って日本に逃れたユダヤ人のほとんどが、戦争を生き延びたと言われています。しかし、日本からさらに他国に移動したユダヤ人の中には、日本の敗戦後にソ連に引き渡されたり、ナチスの占領下にあった国に送還されたりして、命を落とした者もいました。

2023年9月14日、オランダのマルク・ルッテ首相は、キュラソービザを発行したヤン・ズワルテンダイク氏(1896~1976)に、人道的行為を讃える勲章「Medal for Acts of Humanity」を授与しました。

この勲章は、戦闘以外の勇敢な行為に対して授与されるオランダで最も古く、最も重要な勲章とされています。ズワルテンダイク氏は、1940年にリトアニアでオランダの名誉領事として、約2,000枚のキュラソービザをユダヤ人難民に発給し、日本の外交官杉原千畝氏と協力して、数千人のユダヤ人の命を救いました。

ルッテ首相は、ズワルテンダイク氏の子供たちにメダルを手渡す際に、「父親がしたことは素晴らしいことです。彼は自分の命を危険にさらしながら、多くの人々を救いました。彼はオランダの英雄であり、私たちは彼に感謝しています」と述べました。また、「彼は自分の判断で行動し、正しいことをしました。彼は人間としての良心に従いました。彼は私たちに勇気と希望を与えてくれます」とも語りました。

ズワルテンダイク・オランダ領事と「命のビザ」の関係について、以下のようにまとめることができます。

  • 1939年9月:第二次世界大戦が勃発し、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻する。

  • 1940年5月:ナチス・ドイツがオランダに侵攻し、オランダ政府は亡命する。

  • 1940年6月:ナチス・ドイツがソ連に侵攻し、ソ連はリトアニアを占領する。ユダヤ人難民がカウナスに集まり、脱出を求める。

  • 1940年7月:オランダの電気通信会社フィリップスのリトアニア工場長であったズワルテンダイクに対してオランダ在ラトビア大使であったデデッケルは在カウナス名誉領事を命じる。ズワルテンダイクは南米のオランダ領キュラソー島への見せかけの「目的地ビザ」を発給し始める。杉原千畝が日本への通過ビザ(「命のビザ」)を発給し始める。

  • 1940年8月:在カウナス領事閉鎖。彼らは約2000枚の「キュラソービザ」と「命のビザ」を発給したと推定される 。ズワルテンダイクと杉原千畝がリトアニアを去る 。

  • 1942年2月:日本軍がオランダ領東インド(現在のインドネシア)に侵攻する。日本とオランダは開戦する。

  • 1945年8月:第二次世界大戦が終結する。

  • 1963年:ズワルテンダイクの功績がロサンゼルスの新聞で報じられる。

  • 1976年:ズワルテンダイクが亡くなる。彼は自分がしたことを秘密にしていたため、どれほど多くの人々を救ったかを知らなかった。

  • 1997年:ズワルテンダイクがイスラエルから「諸国民の中の正義の人」という称号を授与される。

  • 2023年:ズワルテンダイク・オランダ領事と「命のビザ」の知られざる原点という展覧会がオランダ大使館で開催される。その後、読売新聞よみうりギャラリーなどで巡回展示される 。当時12歳だったポーランド出身でオーストラリア在住のマルセル・ウェイランドさん(95歳)が約80年ぶりに来日し、展覧会に参加する。

以上が、ズワルテンダイク・オランダ領事と「命のビザ」の関係についての年表です。

参考文献

キュラソービザの真実 English text follows below Japanese...

Posted by 父、杉原千畝  My father, Chiune Sugihara on Thursday, May 24, 2018

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