「いじめ加害者との話し合いは拒否すべき! 関係を悪化させる」 てのは正しい。


上記文抜粋
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いじめの話し合いは加害者との関係を悪化させてしまう!?

学校にいじめの相談をすると、教師の多くは「話し合い」をしたがります。被害者と加害者を集めてお互いに話し合いをさせるという方法です。

いじめ問題は適切な対処方法を学校が行えば、すぐにでも解決するのですが、この「話し合い」は残念ながらいじめ問題を悪化させる対処法のひとつといえます。

いじめ相談にのっていると、この話し合いの結果、約9割の被害者が不登校になります。ですから、「話し合い」を学校側から提案されたら拒否をしたほうがよいでしょう。

<目次>
話し合いは糾弾の場になりがち
話し合いの結果不登校になってしまうことも
「いじめられる方にも原因がある」という誤った考え方

話し合いは糾弾の場になりがち

私たちが子供だった頃は、クラス内の人間関係のトラブルをこの「話し合い」で解決したことが多かったと思います。そして実際に解決できました。それは、先生がしっかりと交通整理をしてくれ、「善悪の基準」を示してくれたからです。しかし、残念ながら現代ではこの方法があまり機能していません。

いじめ加害者数人といじめ被害者一人の話し合いの場では、
「だって、こいつうざいし。」
「空気読めない方が悪いよ。」
「おまえのせいで、縄跳び大会で勝てなかったし。」
と、加害者側が自分たちの行為を棚に上げて被害者の欠点を、1時間も2時間も言い続けるのです。悪口を言われ続けて耐えられる子は、それほどいません。大半の子は、この時点で不登校になってしまいます。

話し合いの結果不登校になってしまうことも

いじめられている被害者は、多数決の原理で 口を封じられ、被害者でありながら「お前も悪い」と半分は犯人扱いにされます。その深い絶望感と、明日からもっといじめがひどくなるという恐怖心から 次の日から学校に行けなくなるのです。

それは、多くの話し合いが「いじめるお前も悪いが、いじめられているお前にも問題がある。だから、お互い誤って仲直りをしろ。喧嘩両成敗だ。」で終わらせられるからです。

「話し合い」と同じような対応の仕方に「作文を書かせる」というものもありますが、これも結果は似たようなものです。書かせた作文を、クラス全員に朗読をさせたところ、結果としてクラスの大半が一人の子を糾弾することになってしまったというケースもあります。

「いじめられる方にも原因がある」という誤った考え方

このような結果になる原因の1つとして、「いじめられる方にも原因がある」という考え方が蔓延していることが考えられます。立ち会っている教師が、善悪の基準を示し、話し合いを主導し「いじめは悪い」とジャッジしてくれれば、いじめを話し合いで解決することはできますが、現状では話し合いは不登校児を量産するというのが現実です。

ですから、「いじめ加害者からの謝罪の場」以外の話し合いは、断固として拒否をしていただきたいと思います。力のある教師は、加害者複数と被害者一人という構図を絶対に避けてくれます。「いじめの話し合い」が必ずしも解決には結びつかないということを知ってほしいと思います。

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抜粋終わり

そもそも「いじめ」は、それなりに正義感で起きる面もある。

だからと言って、いじめ倒して自殺させても正しいわけがない。


上記文抜粋
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教員がいじめを無意識に扇動している可能性

教員が担う「統率」という仕事
日本の学校教育は一斉指導です。

そのため、学習成果をあげるために学級は統率される必要があり、教員がその役目を担っています。

「みんないっしょ」「ルールを守ろう」「同じ」「正しい」「正義」「なんでできないの?」

これらの言葉はどれも学級を統率するために出てくるものでしょう。

価値観の統一。画一的な指導。スタンダード。最近の学校教育の流行りです。

子供に植え付けられる「同じが正義」という価値観
何が言いたいかはもう伝わったと思います。

これら画一的な指導は、その指導の枠に入れる子供と入れない子供を明確に分けてしまうんです。

さらに言えば、「みんな同じでなければいけない」という価値観を子供たちに強烈に植え付けてしまうんです。

教師に悪意は無いでしょう。

学級を統率しようという教師の指導が、子供たちに「同じでなければいけない」という先入観を作る。やがて「同じじゃない人間を指導する、叱る、排除する、いじめる」という思考回路を生み出してしまう。

そう思うんです。

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抜粋終わり

子供たちに「同じでなければいけない」という先入観を作る。やがて「同じじゃない人間を指導する、叱る、排除する、いじめる」という思考回路を生み出してしまう。

こういう正義感が、いじめを産む。

でも、みんな同じではないではな。


上記文抜粋
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でも愚生のような「発達障害」で「虚弱」な人は、その「集団行動」自体が、困難で、苦痛なのである。

今ならそういう人は別枠で授業もあることもあろうが、氷河期世代の私のころはそんなの無かった。

出来る人は、出来ない人の苦悩は、ほぼわからん・・・特に日本では・・・

・・・・中略・・・・

最初の記事の「体育が嫌い」は、そもそも「出来ない子」を置いてけぼりにするなり「集団行動」のように「無理にでもついていかないといけずそれが難しい」ような子は、確実に「いじめ」の対象になる。

・・・・・中略・・・

人間の「多様性」って見ると、普通に「出来ない子」が出てくるのは当然で、それを「無視」して、日本の体育の思想はある。

そもそも「工場労働者で画一に動ける」という経団連や戦前の軍部の「オーダー」に則った教育なのだしね。


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抜粋終わり


日本の集団で画一的な教育てのは、「いじめで締め付ける」ことがないと、存在できないのですはな。

集団行動・集団生活をするのが、全部悪でもない。

だが、あまりに比重が重く、いじめでもしないと、やってられないようになっていると思う。

さらに言えば、「みんな同じでなければいけない」という価値観を子供たちに強烈に植え付けてしまうんです。
教師に悪意は無いでしょう。
学級を統率しようという教師の指導が、子供たちに「同じでなければいけない」という先入観を作る。やがて「同じじゃない人間を指導する、叱る、排除する、いじめる」という思考回路を生み出してしまう。

露骨にいうと、悪意は無くても、知能も無い としか言えない。

易に「君子は、同じ目的を持っても、違う方法をとることがある」って。

その辺が理解できている人は、未だ教師など日本ではやってないでしょうな。


いじめ加害者は、「いびつな正義感」や「周囲の称賛」に答えているが、それを必要とする学校教育のシステムが、そもそぶっ壊れているのでしょうな。


 私は小学生の頃に、いじめをしていた。同じ通学班だった男子を猿と呼んで菌扱いし、ランドセルを蹴り飛ばし、班旗で叩いていた。ケガをさせた事もあるし、彼の親に直々に怒られた事もある気がする。申し訳ないが、あまり覚えていない。
 大人にはずっといい子だと言われてきたし、男女問わず友達になれるし、周りの人にはできれば笑っていてほしい。私にとって彼へのいじめは、その延長だった。私が彼をいじめる事で、周りで見ている人が笑ってくれるのだ。いじめをしているというよりは、どちらかというと正義感だった。
 最初のきっかけは、私が彼にキツい言葉でツッコミを入れたのを、周りが笑ったとかそんな些細なことだ。それがどんどんエスカレートしていじめになった。
 「誰かに認められるため」「自分を主張するため」にいじめをしている人がいたら、ちょっと冷静になってほしい。「いじめること」じゃなくとも、あなたの魅力を伝える方法はたくさんある。


そういえば、最近が、テレビのバラエティー番組が減ったのは、「いじめ」系の笑いが多かったので、それが忌避され始めて、「いじめ芸は、嫌」ってのが、強くなったのもあるだろう。

昭和の芸能人の学生時代の話を聞くと、今の、学生や20代の人たちは、凍り付くようなリアクションをすることが多いのも、それだろう。

考えりゃ、マスコミや創作物で「いじめ」を推奨しているようなものだったのが、天皇カルト日本。


やはり、まずは「学校廃止」と「天皇廃止」が、日本の復興の不可欠かもね。


お読みくださりありがとうございます。

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