見出し画像

『軍隊がきちんとしていれば、いくら将軍が無能でも敗れない。軍隊がきちんとしていなければ、いくら将軍が有能でも勝てない』というけど、それだ。

【RusNews解説】ドネツク市民再び被害…最後の悪あがき?

時事ネタ水曜版をお届け致します:
1.ハンガリーオルバン首相の盟友!
2.仏傭兵多大な人的損失!
3. ドネツク市民への無差別テロ

「進歩主義」で、戦争をしたり人を殺す奴は、進歩主義ではない。ただの詐欺師である。

より

上記文抜粋

・・・・・・・・・
実に啓蒙的な「世界経済フォーラム=シュワブ画像」


この世界経済フォーラム=シュワブ画像は、実にすぐれて啓蒙的だね、グローバリズムに「俗に知られている」マルクス主義とファシズムの調味料をふんだんに入れて調理するなんて。

グローバリズムは厳密にいえば、グローバル資本主義、世界資本主義だ。世界資本の自由主義と言ってもよい。

自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』2000年)

俗に知られているマルクス主義とは、レーニン主義、つまりボルシェヴィズムだ。

ところでマルクスは、議会制を、実は特殊な意志(ブルジョア階級の意志)であるものを一般意志たらしめるものだと考えました。それに対して、マルクスは「プロレタリア独裁」を主張しました。それは「プロレタリアートの解放が人類の解放である」がゆえに、プロレタリアートの特殊意志が一般的たりうるということを意味しています。
しかし、マルクスはその具体的な内容については何も語らなかったのです。しかし、そこに、それならプロレタリア階級の「真の意志」は、どのように代表されるのかという問題が出てくるはずです。その場合、晩年エンゲルスやカウツキーは、議会制をとっていました。
それに対して、レーニンは、少数の前衛としての党がそれを代表するという考えを出しました。したがって、共産党はプラトンのいうような哲学者=王ということになります。このレーニンの考え(ボルシェヴィズム)が、俗に知られているマルクス主義です。こうして、「プロレタリア独裁」は「党独裁」、さらに「スターリン独裁」ということに帰結します。
しかし、それはスターリンの誤りということではすみません。それは実質的には官僚の支配なのですから。さらに、それは、「真の意志」を誰がいかにして代表するかという問題にかんする、一つの考え方の帰結ですから。さらに、それは「民主主義的」でないとはいえないからです。
シュミットは、共産主義的な独裁形態が民主主義と反するものではないといっています。もちろん、彼はヒットラー総統の独裁は民主主義的であるというのです。
«ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的ではあるが、しかし、必ずしも反民主主義的であるわけではない» 。
実際、ヒットラーはクーデターではなく、議会的選挙を経て合法的に権力を握ったのです。そして、その政策は、基本的に官僚による統制経済です。それはワイマール体制(議会民主主義)においてなすすべもなかった失業問題を一挙に解決して、「大衆の支持」を獲得したわけです。(柄谷行人『〈戦前〉の思考』1994年)

要するに俗に知られている「マルクス主義=共産主義」も「ファシズム」も民主主義だ。

ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない。民主主義の歴史には多くの独裁制があった[Bolschewismus und Fascismus dagegen sind wie jede Diktatur zwar antiliberal, aber nicht notwendig antidemokratisch. In der Geschichte der Demokratie gibt es manche Diktaturen](カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)
民主主義が独裁への決定的対立物ではまったくないのと同様、独裁は民主主義の決定的な対立物ではまったくない[Diktatur ist ebensowenig der entscheidende Gegensatz zu Demokratie wie Demokratie der zu Diktatur.](カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1926年版)

他方、グローバリズムは先に示したように資本の自由主義だ。つまり世界経済フォーラムの目指そうとしているのは究極の自由民主主義だよ。


どうして人は自由民主主義をまともに批判してこなかったんだろう?


自由主義と民主主義の対立とは、結局個人と国家あるいは共同体との対立にほかならない。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)

現代の民主主義とは、自由主義と民主主義の結合、つまり自由ー民主主義である。それは相克する自由と平等の結合である。自由を指向すれば不平等になり、平等を指向すれば自由が損なわれる。(柄谷行人『哲学の起源』2012年)


柄谷が上の二文で言っていることは、「自由主義/民主主義」は「個人/国家・共同体」かつ、「不平等/平等」だということである。そしてマルクスにおいて資本の自由は搾取の自由に行き着く(いわゆるベンサム主義)。これこそ世界経済フォーラムの背後にいる金融資本がやっていることだ。


さらに民主主義的平等とは、ナチの天才理論家シュミットにとって異質な者の排除を意味する。

民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質なものの排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異質な者や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…] Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)


これも世界経済フォーラムがやろうとしていることだ、反シュワブ組に対する排除・殲滅を。


ああ、なんという自由民主主義の帰結!

※附記


ちなみに巷間ではほとんどまったく理解されていないマルクスの共産主義とは次の内容をもっている。

一般に流布している考えとは逆に、後期のマルクスは、コミュニズムを、「アソシエーションのアソシエーション」が資本・国家・共同体にとって代わるということに見いだしていた。彼はこう書いている、《もし連合した協同組合組織諸団体(uninted co-operative societies)が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外の何であろう》(『フランスの内乱』)。この協同組合のアソシエーションは、オーウェン以来のユートピアやアナーキストによって提唱されていたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


自由でアソシエートした労働への変容[freien und assoziierten Arbeit verwandelt]〔・・・〕

もし協同組合的生産 [genossenschaftliche Produktion]が欺瞞やわなにとどまるべきでないとすれば、もしそれが資本主義制度[kapitalistische System] にとってかわるべきものとすれば、もし連合した協同組合組織諸団体 [Gesamtheit der Genossenschaften] が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断のアナーキー [beständigen Anarchie]と周期的変動 [periodisch wiederkehrenden Konvulsionen]を終えさせるとすれば、諸君、それはコミュニズム、可能なるコミュニズム [„unmögliche“ Kommunismus]以外の何であろう。(マルクス『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』)



柄谷が『世界史の構造』以降、連発している交換様式図に代入すれば、こう置けるな。


共産主義とは『古代社会』にあった交換様式Aの高次元での回復である。すなわち、交換様式Dの出現である。(柄谷行人『力と交換様式』2022年)

とはいえ共産主義はその名に悪いイメージが纏い付いているからな、別の名にしたほうがいいが。コモンとか。

ネグリは最近ようやくマルチチュードの浅薄さに気づいて次のように言っているけどね。


マルチチュードは、主権の形成化 forming the sovereign power へと解消する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。(…)multitudo 概念を強調して使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、マルチチュードmultitudoとコモンcomunis 概念を推敲するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。(…)スピノザの教えにおいて、単独性からコモンsingularity to the commonへの移行において決定的なことは、想像力・愛・主体性である。新しく発明された制度newly invented institutionsへと自らを移行させる単独性と主体性は、コモンティスモ commontismoを要約する一つの方法である。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)

なぜ我々はこれをコミュニズムと呼ばないのか。おそらくコミュニズムという語は、最近の歴史において、あまりにもひどく誤用されてしまったからだ。(…だが)私は疑いを持ったことがない、いつの日か、我々はコモンの政治的プロジェクトをふたたびコミュニズムと呼ぶだろうことを[I have no doubt that one day we will call the political project of the common ‘communism' again]。だがそう呼ぶかどうかは人々しだいだ。我々しだいではない。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)

・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・

真の敵から目を逸らしてはならない(レーニン)

レーニンは、1918年7月4日に「反ユダヤ運動撲滅に関する告示」を公布した後の演説で次のように要約できることを言っている。


反ユダヤ主義とは、勤労者をして彼らの真の敵、資本家から目をそらせるための資本主義的常套手段にすぎない。ユダヤ人を迫害し、追放せる憎むべきツァー政府よ、呪われてあれ! ユダヤ人に敵対し他民族を憎みたる者よ、呪われてあれ!


これはネット上で拾ったものだが厳密には次のもののようだ。


◼️V. I. Lenin Anti-Jewish Pogroms
Recorded: End of March 1919;

反ユダヤ主義とは、ユダヤ人に対する敵意を広めることを意味する。呪われたツァーリ君主国がその末期を迎えていた頃、無知な労働者や農民をユダヤ人に対して扇動しようとした。ツァーリ警察は地主や資本家と連携して、ユダヤ人に対するポグロムを組織した。地主や資本家は、欠乏に苦しむ労働者や農民の憎悪をユダヤ人に向けてそらそうとした。他の国々でも、資本家が労働者の目をくらませ、労働者人民の真の敵である資本から注意をそらすために、ユダヤ人に対する憎しみを煽っているのをしばしば目にする。ユダヤ人に対する憎悪が根強いのは、地主や資本家への奴隷制が労働者や農民にひどい無知を生み出している国々だけである。ユダヤ人について流布されている嘘や中傷を信じることができるのは、最も無知で虐げられている人々だけである。これは、聖職者が異端者を火あぶりに処し、農民が奴隷制度で暮らし、人々が押しつぶされて言葉を失った古代の封建時代の生き残りである。この古代の封建的な無知は消え去りつつあり、人々の目が開かれつつある。

Anti-Semitism means spreading enmity towards the Jews. When the accursed tsarist monarchy was living its last days it tried to incite ignorant workers and peasants against the Jews. The tsarist police, in alliance with the landowners and the capitalists, organised pogroms against the Jews. The landowners and capitalists tried to divert the hatred of the workers and peasants who were tortured by want against the Jews. In other countries, too, we often see the capitalists fomenting hatred against the Jews in order to blind the workers, to divert their attention from the real enemy of the working people, capital. Hatred towards the Jews persists only in those countries where slavery to the landowners and capitalists has created abysmal ignorance among the workers and peasants. Only the most ignorant and downtrodden people can believe the lies and slander that are spread about the Jews. This is a survival of ancient feudal times, when the priests burned heretics at the stake, when the peasants lived in slavery, and when the people were crushed and inarticulate. This ancient, feudal ignorance is passing away; the eyes of the people are being opened.


労働者人民の敵はユダヤ人ではない。労働者の敵はあらゆる国の資本家である。ユダヤ人の中にも労働者はおり、彼らが多数派を占めている。彼らは、我々と同じように資本に抑圧されている我々の兄弟であり、社会主義闘争の同志である。ユダヤ人の中にも、ロシア人の中にも、あらゆる国の人々の中にもいるように、クラーク、搾取者、資本家がいる。資本家たちは、異なる信仰、異なる国家、異なる人種の労働者間に憎しみを植え付け、煽り立てるために努力している。働かない者は、資本の力と強さによって権力を維持し続ける。金持ちのユダヤ人は、金持ちのロシア人と同様に、そしてあらゆる国の金持ちは、労働者を抑圧し、粉砕し、強奪し、分裂させるために同盟している。
ユダヤ人を拷問し迫害した呪われたツァーリズムを恥じよ。ユダヤ人への憎しみを煽る者、他国への憎しみを煽る者は恥ずべきだ。
資本打倒の闘いにおけるすべての国の労働者の友愛的信頼と闘う同盟万歳!


It is not the Jews who are the enemies of the working people. The enemies of the workers are the capitalists of all countries. Among the Jews there are working people, and they form the majority. They are our brothers, who, like us, are oppressed by capital; they are our comrades in the struggle for socialism. Among the Jews there are kulaks, exploiters and capitalists, just as there are among the Russians, and among people of all nations. The capitalists strive to sow and foment hatred between workers of different faiths, different nations and different races. Those who do not work are kept in power by the power and strength of capital. Rich Jews, like rich Russians, and the rich in all countries, are in alliance to oppress, crush, rob and disunite the workers.
Shame on accursed tsarism which tortured and persecuted the Jews. Shame on those who foment hatred towards the Jews, who foment hatred towards other nations.
Long live the fraternal trust and fighting alliance of the workers of all nations in the struggle to overthrow capital.

実に「構造主義者」マルクス的演説である。現在においても、イスラエルロビーや世界経済フォーラムなどの資本主義の悪の表象批判するのではなく、これらの背後にある金融資本自体、あるいは資本の《絶対的な致富欲動[absolute Bereicherungstrieb]》に駆り立てられた世界資本主義システム自体を徹底批判せねばならない。


人は資本家のポジションに置かれたら、本人の意識がどうであれ、自己の利益を追求するために他者を搾取するようになる。これがマルクスが繰り返し強調したベンサム主義だ。


マルクスはこう言っている。

人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定する。Es ist nicht das Bewußtsein der Menschen, das ihr Sein, sondern umgekehrt ihr gesellschaftliches Sein, das ihr Bewußtsein bestimmt.(マルクス『経済学批判』「序言」1859年)

経済的社会構成の発展を自然史的過程としてとらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとはしない。個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。

Weniger als jeder andere kann mein Standpunkt, der die Entwicklung der ökonomischen Gesellschaftsformation als einen naturgeschichtlichen Prozeß auffaßt, den einzelnen verantwortlich machen für Verhältnisse, deren Geschöpf er sozial bleibt, sosehr er sich auch subjektiv über sie erheben mag. (マルクス『資本論』第一巻「第一版序文」1867年)

ここでより理解を深めるために柄谷行人の注釈を掲げておこう。

マルクスは次のように言っている。


ひょっとしたら誤解されるかもしれないから、一言しておこう。私は資本家や土地所有者の姿をけっしてばら色に描いていない。そしてここで問題になっているのは、経済的範疇(カテゴリー)の人格化であるかぎりでの、一定の階級関係と利害関係の担い手であるかぎりでの人間にすぎない。経済的社会構成の発展を自然史的過程としてとらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとはしない。個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(『資本論』第一巻「第一版へのまえがき」)


ここでマルクスがいう「経済的カテゴリー」とは、商品や貨幣というようなものではなくて、何か商品や貨幣たらしめる価値形態を意味する。 『グルントリセ』においても、マルクスは商品や貨幣というカテゴリーを扱っていた。『資本論』では、彼は、それ以前に、何かを商品や貨幣たらしめる形式に行しているのである。 商品とは相対的価値形態におかれるもの(物、サービス、労働力など)のことであり、貨幣とは等価形態におかれるもののことである。同様に、こうしたカテゴリーの担い手である「資本家」や「労働者」は、諸個人がどこに置かれているか(相対的価値形態か等価形態か)によって規定されそれは彼らが主観的に何を考えていようと関係がない。

ここでいわれる階級は、経験的な社会学的な意味での階級ではない。だから、現在の社会において、『資本論』のような階級関係は存在しないというような批判は的外れである。 現在だけでなく、過去においても、どこでもそのように単純な階級関係は存在しなかった。そして、マルクスが具体的な階級関係を考察するとき、諸階級の多様性、そして言説や文化の多様性について非常に敏感であったことは、『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』のような仕事を見れば明らかなのだ。一方、『資本論』では、マルクスは、資本制経済に固有の階級関係を価値形態という場において見ている。その意味では、『資本論』の認識はむしろ今日の状況によりよく妥当するといってよい。たとえば、今日で労働者の年金は機関投資家によって運用されている。つまり、労働者の年金はそれ自身資本として活動するのである。その結果、それが企業を融合しリストラを迫ることになり、労働者自身を苦しめることになる。このように、資本家と労働者の階級関係はきわめて錯綜している。 そして、それはもう実体的な階級関係という考えではとらえられないように見える。 しかし、商品と貨幣、というよりも相対的価値形態と等価形態という非対称的な関係は少しも消えていない。『資本論』が考察するてのはそのような関係の構造であり、それはその場に置かれた人々の意識にとってどう映ってみえよう存在するのである。

こうした構造主義的な見方は不可欠である。 マルクスは安直なかたちで資本主義の道徳的非難をしなかった。むしろそこにこそ、マルクスの倫理学を見るべきである。資本家も労働者もそこでは主体ではなく、いわば彼らがおかれる場によって規定されている。 しかし、このような見方は、読者を途方にくれさせる。……(柄谷行人『トランスクリティーク』「イントロダクション」p40-41)

「構造主義的な見方」とあるが、構造主義の始祖レヴィ=ストロースは自伝『悲しき熱帯』で、「私の二人の師」として、マルクスとフロイトを挙げている。さらに『野生の思考』ではこう記している。

要素自体はけっして内在的に意味をもつものではない。意味は「位置によって」きまるのである。それは、一方で歴史と文化的コンテキストの、他方でそれらの要素が参加している体系の構造の関数である(それらに応じて変化する)。 éléments,…Les termes n'ont jamais de signification intrinsèque ; leur signification est « de position », fonction de l'histoire et du contexte culturel d'une part, et d'autre part, de la structure du système où ils sont appelés à figurer.(レヴィ=ストロース『野性の思考』1962年)

マルクスが言っているのはまさにこの考え方なのである。人間は社会的関係の「位置によって」決まる。これが『資本論』序文の《個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである》の意味である。


柄谷はさらに次のようにも注釈している。

マルクスは『資本論』においていっている、貨幣が一商品であることを見ることはたやすいが、問題は、一商品がなぜいかにして貨幣となるかを明らかにすることだ、と。彼がボナパルトについていうのも同じことだ。ボナパルトに「痛烈にして才気あふるる悪口をあびせかけた」 ヴィクトル・ユーゴーに対して、マルクスは、「私は平凡奇怪な一人物をして英雄の役割を演ずることをせしめた情勢と事件とを、フランスの階級闘争がどんな風につくりだしていったかということをしめす」と書いている(『ブリュメール一八日』「第二版への序文」同前)。ユゴーのような批判を幾度くりかえしても、それは貨幣がただの紙きれだというのと同じく、何の批判にもならない。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第1章「移動と批判」第2節「代表機構」)

そう、イスラエルロビーや、シュワブ組に対して「痛烈にして才気あふるる悪口をあびせかけ」 ても詮無きことである。これらの集団がなくなっても我々が世界資本主義の掌の上の猿である限り、類似集団がすぐ湧き起こる。

我々にとって最も重要なのは資本主義のメカニズムへの徹底批判と代替世界システムの模索である。

マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できない。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらだ。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することである。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければならない。
Je ne comprends pas ce que les gens veulent dire quand ils prétendent que Marx s'est trompé. Et encore moins quand on dit que Marx est mort. Il y a des tâches urgentes aujourd'hui: il nous faut analyser ce qu'est le marché mondial, quelles sont ses transformations. Et pour ça, il faut passer par Marx:(ドゥルーズ「思い出すこと」死の2年前のインタビュー、1993年)

・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり

私は、共産主義も「糞」と思う。

でも、その糞を生んだのは、「資本主義」って糞だった。

共産主義がダメだから、資本主義って、「家を出て、別の家に行く」みたいなもので、ゴミくずである。

李衛公問対で、諸葛亮兵書にいうと

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・

 太宗は言いました。
「諸葛亮は、いつも『軍隊がきちんとしていれば、いくら将軍が無能でも敗れない。軍隊がきちんとしていなければ、いくら将軍が有能でも勝てない』と言っていた。しかし、この言葉は、必ずしも十分なものではないのではないだろうか」
 李靖が答えました。
「これは、諸葛亮が感じるところがあって言ったにすぎません。『孫子』をみてみますに、『教練のやり方はでたらめで、役人や軍人の仕事は一定していないし、部隊の配置はむちゃくちゃ、これを乱れた軍隊と言う。むかしから乱れた軍隊は勝ちを失っており、こういった例はたくさんある』とあります。
 そもそも『教練のやり方はでたらめ』というのは、訓練するときに、古人のすぐれた兵法にならわないことを言います。『役人や軍人の仕事は一定していない』というのは、将軍や官僚の人事異動がひんぱんで、一つの仕事にうちこめないことを言います。『乱れた軍隊は勝ちを失う』というのは、軍隊が自滅することで、敵と戦って負けることではありません。それで諸葛亮は、『軍隊がきちんとしていれば、いくら将軍が無能でも敗れない。軍隊がきちんとしていなければ、いくら将軍が有能でも勝てない』と言ったのです。この言葉には、疑う余地がありません」

・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

ようするに「システム」が、悪ければ、努力しても虚しいのである。

資本主義・民主主義も、どっちも「欠陥」が多いで有る。

それを直視せずに「自由・民主主義は、無条件に正しい」などいうのは、その欠陥に目を背けるものであり、それ自体が、民主主義を破壊するのである。

「民主制の欠陥・弱点を見ない」ってその在りよう・思想が、そもそも欠陥なのであり、当然

「教練のやり方はでたらめで、役人や軍人の仕事は一定していないし、部隊の配置はむちゃくちゃ、これを乱れた軍隊と言う。むかしから乱れた軍隊は勝ちを失っており、こういった例はたくさんある」

「『乱れた軍隊は勝ちを失う』というのは、軍隊が自滅することで、敵と戦って負けることではありません。」

壊れたシステムは、自壊して外部からの攻撃・天変地異に耐えきれるはずもない。

ましてや「天皇」とか壊れて150年たつシステムを信仰する「天皇神道」「天皇国家」は、1000年以上の歴史を持つ日本を確実に死滅させる。

さて、天皇家と特にその閨閥と信者を根絶やして、栄光の日本人国家を建国しましょう。

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みの富む社会になりますように。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?