球児と西成のジジイたちの熱い夏
もうすぐ夏の甲子園が始まる。球児たちの熱い青春だ。
野球少年だった僕にとって、27歳を過ぎた今でも甲子園は憧れの舞台だ。
小学生の頃、中学校を卒業したら、PL学園に入ってレギュラーになり、そのまま甲子園でスターになって阪神にドラフト1位で指名され、大活躍して名捕手になる、という人生設計を立てていた。それが無理なら早稲田の法学部に入って弁護士になろうと思っていた。
結果として僕は今、白球を追うどころか、薄給に追われる生活をしている。
人生は何が起きるかわからない。
6年前、僕は夏の甲子園に行った。変わり者の友達がいて、大学生なのに甲子園の全試合を見るという、定年退職後のジジイの夏休みみたいなことをやっている奴がいたのだ。
その友達が席を取ってくれていたので、ビールをガブガブ飲みながら僕たちは高校野球を観戦した。どの試合も白熱していた。時間を忘れて、応援に没頭した。
気がついたら夜。ビールを飲みまくっていたからグデングデンに酔っ払ってしまった。朝から夜まで野外にいたことも相まって、疲労感がすごい。
この疲労は、酒を飲むことでしか解消できなさそうである。
甲子園を後にした僕たちは、もっと酒を飲もう、という話になり、梅田に向かった。
梅田で酒を飲んだ僕たち。大阪をそんなに知らなかった僕は酒の席で、大阪のとある場所に興味がある、と友達に言った。
その場所とは、飛田料理組合である。
料理を食べようとして料亭に行ったのに、誤ってお茶を持ってきた女の子と恋に落ちてしまうという、伝説の料亭である。
僕は、そこに行ってみたいと友達に持ちかけた。その友達もスケベなヤローなので、即快諾。僕たちは急いで会計を済ませて飛田料理組合に向かうことになった。
飛田料理組合に行く、というだけで一気に酔いが醒めた。
興奮交じりで地下鉄に乗り込み、飛田料理組合のある、動物園前駅で降りる。
まず、駅の名前に驚いた。
動物園前駅という名前の響きがなんだかもう、とても艶かしいのだ。動物園前の駅である。近くに動物園があるのはわかる。だが、動物園に行かない私たちでさえ、なんというか、動物というワードが、艶かしいのだ。
古びた商店街を抜けて、へべれけで殴り合うホームレスを避けたり、警察官に喧嘩を売るババアにビビりながら、僕たちはなんとか飛田料理組合にたどり着いた。
その料亭街に一歩足を踏み入れた瞬間、この街はエロい、ということが肌感覚でなんとなくわかった。
街灯でさえ、なんだか艶かしい雰囲気を放っていた。街灯を見るだけでエロい、と感じてしまった。勃起しそうになった。すれ違う男たちの伸びた鼻の下を必死に隠す顔も、エロい。呼び込みのおばちゃんも、光に照らされたお姉さんも御多分に漏れず、エロい。
エッチだ……。この街は……エッチな街だ……。
僕と友達は衝撃を受けた。
僕たちは街を歩いた。綺麗なお姉さんと目が合うと、お姉さんはニッコリと笑って「おいでー」と僕たちに語りかける。
ヒッ、ヒィ……!!!
人生で、あんなに美しいお姉さんに話しかけられたことはないのだ……!!
僕と友達は互いに顔を見合わせる。そしてポケットの中を漁り、肩を落とした。
金がない………。
僕たちは貧乏大学生だった。料亭であんなに綺麗なお姉さんと恋に落ちてみたいが、できないのだ。
それとは知らず、街を歩くたびに現れる美人なお姉さんは僕たちに声をかけ続ける。
遊んでってーなー、お兄ちゃん!
ちょっと強引な呼び込みのおばさん。
ホラ!あんた!遊んでって!ええ子やで!
あああああ!!おばさん!!遊びたいよ!遊びたいけど、金がないんだよ!!僕たちには!!
この世は結局ゼニなんだな、と打ちひしがれたところで、僕たちは帰ることにした。
将来、メイクマネーして、あんな女をはべらかそうな、と言いながら歩く。どんな女とやりたいか、妄想を話しながら、さっき酔っ払ったジジイが殴り合っていた治安の悪い商店街を歩こうとした。
その商店街の入り口に差し掛かった直前、いきなり目の前に野生のジジイが現れた。
日焼けした黒い肌、傷んだ白毛の長髪に、シミだらけのシャツ、破れたボロボロのズボン。彼は僕たちを見るとニカッと笑った。歯は全て抜け落ちていて、鼻をつく甘ったるいアンモニア臭がした。
そのジジイは、なぜか黄色いロードバイクに跨っていた。ボロボロで汚い服装とは裏腹に、その自転車はやけにキレイだ。
ジジイが粘っこい口を開いた。
「飛田、行ったんか?」
ジジイと殴り合いをしたくない僕は頷いた。
「行ってきました」
「気持ちよかったか?」
「いや……」
そう答えるとジジイは、自分の跨る自転車を指差した。
「この自転車なんぼやと思う?」
僕はそのブランドを知っていた。ジャイアントという台湾のブランドである。いきなりこんな質問をされる理由もよくわからなかったが、僕はジジイと殴り合いをしたくないので答えた。
「5万くらいですか?」
ジジイは嬉しそうな顔をして首を横に振った。
「15000円や。近所のリサイクルショップで、15000円や」
友達がそれを聞いて「あっ、そうなんですね……」と答えた。それしか返事のしようがなかった。いきなり歯のないジジイに話しかけられて、ジジイの自転車の値段を当てさせられるなんて、わけがわからないのだ。
すると、ジジイは嬉しそうに僕たちに言った。
「15000円でお前らは女を買うた。でもな、15000円あればな、チャリンコを買えるんや。わかるか?同じ15000円でもな、こんなに違いがあるんやど!お前らはアホや!アホ!あはははー!アホアホー!あはははー!アホー!」
そう言うとジジイは自転車で颯爽と走り去っていった……。
まじでわけがわからなかった。
本当にわけがわからなかった。
僕たちはそのジジイの背中を見ながら立ち尽くした後、この短時間で起きたことを整理できずに混乱したまま駅に向かって歩き出した。
帰り道、昼間に見た甲子園の感動などはすっかり頭の中から消え去っていた。手に汗を握る瞬間がたくさんあったはずなのに、全く思い出せない。僕の記憶に残っているのは、艶かしいライトに照らされた美しいお姉さんと、歯の抜け落ちたジジイの間抜けな笑顔だけである。
今年も夏の甲子園が始まる。僕は、また一つ歳をとる。
早く、札束であのジジイの頬を叩いてやりたいな、札束でお姉さんをはべらかしたいな、そう思いながら、結局そんな金も金を得るプランもなく、僕は今日も冷房の効いた室内でダラダラしている。
生きます。