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『地域共存=誰かの犠牲によって生きている』ということなのだろうか【机上のノーマライゼーション】

あまり時事ネタには触れたくないのだが、朝から刺激的なニュースが目に飛び込んできた。



一連の内容については、訴訟当事者ではないのであまり深堀しない。

それよりも、このニュースについて、特に我々福祉関係者としてはできる限り冷静にとらえる必要があるかと。



このニュースの本質とは少しだけずれるが、思い浮かんだこと。

障害を持つ人も地域の中で当たり前に生活する社会。うたい文句はとても素晴らしいし、実際に見事に実践している国も数多く知られている。日本は遅れているということも幾度となく耳にする。

前にも述べたことがあるが、数年前には「脱・施設」と掲げ、「施設=悪」の考え方のもと、入所施設を解体し、利用者をとにかく地域に出すという取り組みもあった。ある自治体では入所施設ゼロを達成したとかしないとか。


その施設を出た人達が行きつく先の多くが「障害者グループホーム」なのである。もちろんグループホームは施設から出た人専用と言うわけではなく、元々地域に暮らしていた人たちが、病気や障害によって日常的な支援が必要となり、利用されるケースも多い。特にここ数年は障害者の概念自体も、広がるというよりもあいまいになってきており、多種多様な特性を持つ入居者が共同生活を送るグループホームも目立つ。


私自身が他所でも何度かコメントしているが、入所施設は「必要」なものだと思う。そもそも、必要としている人がいるかぎり「必要」なのである。


入所施設で長年生活してきた人にとっては、そこが「住まい」であり「居場所」でもある。外野から「施設に入れるなんてひどい」などの声があがる反面、利用者の多くはその場所で安心という感覚を育んでいる。もちろんすべての施設がそうだとは言わないが、少なくとも、施設がなくなるというのは、彼らにとっては「安心できる居場所・長年慣れ親しんだ住まいから意に反して出される」ことも考えられるのだ。

障害当事者の「意思決定」が尊重される障害者支援制度であるならば「地域に出す」と「地域に出たい」この2つは大きな差がある。これを無視して「ノーマライゼーション」などと謳うことは個人的にはできない。



一方で受け皿のほうはどうか。

「地域との共存」もちろん地域の中で障害を持つ人が当たり前のように暮らすということは、その地域・しいては住民とともに一つの地域社会を熟成していくことに他ならない。

例えば、私の良く知るグループホームなどの多くが地域の自治会に参加しており、自治会費を払ったり、私自身もマネジメント時代に自治会の連合に参加したこともある。グループホーム開業時のご近所へのあいさつ回りは不可欠である。

地域のルールを守り、顔の見えた関係性のもとに、お互いがいざと言うときに助け合い支え合うこと。すごくおおまかに言うとこれが地域共存の第一歩。昭和の時代の話だろうか。ならばこれに現代ならではのテイストを加えれば良いだけのこと。


それでも、今でも日本の多くの地域で「障害者施設建設反対」の運動がなされてしまう。「自分たちの生活を守るため」。ならば、障害者施設が建設されるとなぜ自分たちの生活が迫害される恐れがあるのだろうか。その点について感情論ばかりが独走し、客観的な見解が示されないからこそ、声を上げた側がいわゆる「炎上」してしまうのである。そこで深読みされてしまうのが「自分だけが守られればよい」まさに「共存」とは真逆の考え方である。


私も長く福祉側の世界にいるので、一般の方々の感覚はわからなくもないけどわからないといった感じ。しかしながらこの感覚をスルーすることはあってはならない。誤解を生じないためにも丁寧に取り扱うべきである。

先程述べた通り、現代では障害者の概念自体あいまいであり、それこそこれまで自分の隣近所に暮らしていた人がある日を境に「障害者」とネームを貼られることだって不思議ではない。

障害者施設と名付けられているところを利用する人は、一見して「障害を持った人だ」と分かる人だけでなく、どこにでもいるようなありふれた人々もそれなりに多い。発達障害者や、精神障害を患った人たちも、昨今はこのような資源を多く利用されている。であるならば、支援者がそばにおり、常時見守りがなされている施設があるということは逆に周囲の人にとっては安心なのではないかと、私は思う。こういう考えは好きではないけど、その地域のステイタスだって上がるはず。




さて、話が大きくそれたが、冒頭のニュースに関して触れると、グループホームが「住まい」なのか「施設」なのかの見解にずれがあるようだ。以前コラムでも述べたが、グループホームは両者の側面を持っている。そのため判断の基準は「法律」やその場の「規定」によることとなり、この大阪府の判断は、個人的にはやむを得ないと感じる。そう結論がなされたのであれば素直に認識を改め、グループホーム入居者の為にも次の安息の場を早急に探すべき。現・利用者の為にもここは愚痴ったり戦う場面ではない。潔さも福祉事業には必要である。


訴えを起こしたマンションの住民は、世間体も有り、言葉を慎重に選んでいるように思える。特殊な住居には違いない(本来はこういう認識がなくなればよいと思うのだが)ので、賛否両論の中、すべての人の意見を一致させることは難しいのであろう。

どちらの思いも個人的には非難せず尊重したい。



ただ、一点難癖付けるとすれば国が定める「グループホーム設置基準」のほうだ。

私も防火・防災管理者研修などで学んだが、確かに火災などのトラブル事例も発生しており、念には念を入れる必要がある。そのため、消防設備へのコストがかけられるのは理解できないわけではない。

ただ、言ってしまえばそれは一般家庭でも同じこと。いっそのこと「スプリンクラー」や「自火報知機」はすべての住居に備え付け義務にしてしまえばよい。もちろん費用は国から・・なんて都合の良いことはないだろうけど。ただ、慎重を期するばかりではそれこそ国が目指す地域共存のハードルをむやみやたらに上げてしまうだけである。


国や自治体の政策上、グループホームは「地域生活」にあたる(ならばなぜ「訓練等給付」なのか疑問が残るが)。その位置づけも、また見直され始めているようだが、このような事案がまた増えてくると、この位置づけに強い矛盾が生じることとなる。それこそ、以前のように「障害者の施設は山の中」等の考えが復活してしまい、ノーマライゼーションどころの話ではなくなる。



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共生・共存とは、誰かの犠牲を払って突き進むことではない。一方で、ある程度はお互い持ちつ持たれつの関係で生活を営む認識が必要である。他の国のことに詳しいわけではないが、日本はこの点においてまだまだ排他的と言えるだろう。


犠牲の上に成り立つ人生。

そんなこと言ったら、誰だって余暇で魚を釣り、吉野家で牛丼をたしなみ、スポーツでは勝った喜びの裏に負けて涙する悲しさがある。多くの国民が年末年始ゆっくり過ごせる時間は同じ時間に正月返上で仕事に励む人達の尽力のおかげで成り立っている。

誰か(何か)の犠牲の上に成り立つ幸せ。みなそれこそ「あたりまえ」のことと多くの人が認識しているはずだ。



どのような環境調整を行えば、障害を持つ人も、それらを受け入れる地域も「あたりまえ」のこととして共存できるのか、すぐには答えは出ないだろうが、もう少し現実的な視点から声を上げ、制度の精査を促進していきたい。

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