引っ越しから倒産まで(96-98年)

1996年の時だったと思う。
鈴木家は与野ハウスから引っ越しをすることとなる。
場所は、国道17号線沿いの、引っ越し当時はデニーズがあった建物の5階。家賃は10万円。当時の与野ハウスが60平米後半、そして引っ越し先が3DKの50平米前半と、これまでに住んでた家からだいぶ狭くなった。
そして、転校はないものの、小学校からの距離は遠くなった。遊ぶ場所も無くなり、外で遊ぶ機会は減った。
入っていた子供会も、与野ハウスの時よりしょぼくなった。
子どもながらに、都落ちというのを感じた。
なんだかんだで、ここが最も鈴木家が長く過ごした場所になるし、鈴木自身も人生を振り返ると大学を卒業するまではここにいたのもある&社会人になっても広島に転勤になる前は、草野球をやる&バイクを実家の駐車場に置いており、週末を実家で過ごしていたので、かれこれ15年くらいを過ごしたのだった。
父親が転職し、母も専業主婦をやめてパートに出るようになり、鈴木は鍵っ子になった。
ときおり、鍵を忘れるときがあり、このときは途方に暮れるのであった。
転職の影響は他にもあり、与野ハウスにいたときはよく父親と遊んだ記憶があるのだが、転職後はほとんど遊んだ記憶が無いし、話した記憶がほとんど無い。
転職後の企業は10人くらいの会社であり、名ばかり役員の父親はおそらくは忙しかったんじゃ無いかなとは思う。
事業としては、通販会社をやっていた。
当時、家の中にカタログがあったのを見る限り、10台とか20台のロット売りが中心だった。おそらくは企業向けに商売していたんじゃ無かろうか。

転職して最初の頃は、社員旅行にいってたり、子どもへの小遣いと称して社長から1万もらったと言って、子供心にフレンドリーな会社だと思った。

転職の理由として色々あるのだが、結局父が見栄っ張りだったというのもその要因の一つでは無かったのだろうかと分析している。転職の挨拶の時に、「会社役員をやる」「スカウトされた」などと社内で吹聴していたので、さもありなんということだ。

この時期、家族旅行も片手でたりるくらいの回数しかいっていない。
夏休みなどの長期休暇に至っては、大体は父方の祖父母が住んでいる浦安か、母方の祖父母が住んでいる楡木への帰省が多くなった。結局は、娯楽に費やすお金が無いのだった。
また、転職後、収入が下がった父親は、一時期ギャンブルに手を出していたことがある。
パチンコ、競馬、海外くじなど。怪しげな副業にも手を出していて、家にその電話が掛かってきたこともあった。(そのせいで、家の固定電話番号を1度変えている。固定電話が苦手な理由もそのトラウマが原因かもしれない)
北海道一周旅行をやったスペクトロンも売却し、父親は「クルマは必要ないから」と強がりを言っていたが、結局はただ単純にお金が無いだけであった。
とはいえ、生活はおそらくギリギリの状態だったけど、何とかやっていたのがこの時代だったのかもしれない。
ニュースで「見えない貧困」という言葉が出てくるたび、それって貧困では無いのねっていう無慈悲な意見をSNSではみるけども、かつての鈴木家もそれに近かったのでは無いかと思う。子どもに最低限の事はさせられてるけど、プラスアルファになったら金銭的な事情で諦めざるを得ない状況。とはいえ、子ども時代の比較対象なんて無いわけだし、その時代のその家族のあり方しか知らないのだから、これはこれで幸福なことだったのだろうと思うしか無いのだ。

1998年。鈴木が中学1年の時に、父親の転職先が倒産する。

鈴木家崩壊まで、15年。

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