竈(おくどさん)と灰だらけ猫 〜疎開から戦後まで家族との日常の温かな記憶
(あらすじ)子供の頃、疎開地での竈(おくどさん)のある暮らし。猫という身近なものを通して、戦後の困難な時代の中でも日常の中で育まれた人の絆を伝えるや温かい思い出エッセイ。
竈(くど、へっつい、かまど)の話である
「竃」の筆順が、どうなっているかなと気になった。筆順は、結構ややこしく、モタモタすると字の形が整わない。何度も練習した。筆の大きさを変えて練習することもした。「竈」の読みは「くど」。
母は「おくどさん」と呼んでいた。
筆順の稽古をしている内に、「竈」に懐かしいものを感じた。
凡兆(ぼんちょう)は何を詠んだのか
炭竈(すみがま)に 手負いの猪 倒れけり /凡兆 「猿簔」巻之一 冬
凡兆の俳句*1 の「炭竃(すみがま)」からの寄り道*2 した。幸田露伴・著「評釈 猿蓑」には露伴の評釈がない。「炭焼がまの前に傷ついた猪が横たわっている」そのままを詠ったとすれば、句集に載せる値打ちはどこにあるのか。そもそも、炭竃(すみがま)とは何か。炭窯、つまり、炭を焼く窯*3 のことかと推察した。傷ついた猪は、助けを求めて炭焼き窯までたどり着いたというのであろう。何で手負いの猪か。猪は、作者自身のことか。何故、炭竈の前に横たわっているのであろうか。等々、アレコレと深読みをしてしまった。まず、例によって、「竈」の文字を辞書で調べる。
と記されている。もう一つ、「かまど」で、違う意味が載っている。
「くど」は、とみ爺の家*4 にあった。背戸に近い土間に鎮座していたのが「くど」である。母は「おくどさん」と呼んで、利用の度に手を合わせていた。またまた、とみ爺の家の登場である。しばし、お付き合いください。
とみ爺の家の暮らしと猫
1944年、遙か昔の話になる。
父に召集令状が来た。
父は長崎の造船所に勤めていた。戦艦武蔵が進水式を終えて、艤装のため長崎の港を出て行った後のことである。
父は、とみ爺の家への疎開を勧めて、出征した。
町中が総出で旗を振り、出征兵士を見送った。無事を願って、千人針*5 を、頼み回る女性が多く見られた。
母は、男手を頼めない情勢の中で、市役所に疎開の手続きをし、引っ越しの手配をした。家の中を片付け、多くの物を処分した。船便で、タンス1棹と和服の入った柳行李2個を運ぶ段取りをした。
慌ただしく、とみ爺の家に家移りした。
私は小学校(当時の国民学校)入学前の6歳、妹は4歳であった。
(とみ爺の家には、実際は4歳の時にも、3ヶ月滞在したことがあった。母は、幼子を引き連れてやって来た。、その時はハツ婆(祖母)の看病のためであった。)
椿の里の祖父母は死去し、母の実家は、とみ爺の家と呼ばれる空き家だけになっていた。2年の時を経て、とみ爺もハツ婆もいない空き家になった。納屋の牛もニワトリも居なくなっていた。
とみ爺の家は、藁葺き平屋の百姓屋で、玄関から瀬戸まで続く広い土間があった。その土間の奥、背戸に近い所に、竈が設えてあった。おくどさんには、大釜がのっていた。カンコロ*6 作り、味噌造りとフル回転する大釜である。その上に羽釜が据えられると、さらに日々の煮炊きも出来る。米はない。少量の麦が入った芋めしだけである。毎日、おやつの薩摩芋が羽釜で蒸かされた。
疎開してすぐ、母が子猫をどこからか貰って来た。猫は、茶虎の尾曲り猫で、名無しである。子猫の時は、家族の食べるものを与えていた。麦入りの芋飯に味噌汁をかけたものである。すぐに、猫は、自分で食料を調達するようになった。ネズミを取るのが仕事である。穀物を食い荒らすネズミを捕るために猫を飼っていた。愛玩動物ではない。従って猫は、人にかまって貰うことはない。猫の方でも誰にもなつくことはなかった。
雌猫で、1年もすると孕んで、数匹の子猫を産んだ。母は、近くの親戚に相談して、子猫の貰い手を探した。母猫は、最後の1匹が貰われていく時、子猫を追って、ニャーニャーと鳴いた。
母は、煮炊きが済むと、おくどさんの燃え残りを掻き出して、大小様々な熾を拾い上げて、消炭壺に入れた。火の用心である。それと、太い薪の燃え残りの消し炭は、囲炉裏の火を起こす時、埋火に添えられた。着火が早く重宝であった。
寒さが厳しくなると、おくどさんは猫の寝床になる。煮炊きが終って、おくどさんの入り口に広げられた残りの灰は、微細な燠が混じっていてまだ熱い。その灰を踏んで、猫がおくどさんに入ろうとする。「まだ熱いよ」と、母が、猫の首をつまんで引き戻す。毛が少し焦げることもあった。
おくどさんに火を付ける時は、猫が入っていないかをよく確かめてから、母は焚口にビャーラ(乾燥した小枝)を押し込んでいた。時に猫は、奥深くに潜り込んでいて、飛び出してくることもあった。
1945年8月15日、日本の国は戦いに敗れた。終戦から1年して、父が中国大陸から帰還した。長崎市内は原爆で焼けて住宅が見つからない。疎開先から戻る人や引き揚げ者が多く、住宅難が続いた。父は、造船所に復職して、焼け残った社員寮に単身入った。
長崎市の応急住宅
終戦から3年して、私が小学3年生の夏休みに、ようやく一家は、長崎市の応急住宅に移り住むことが出来た。椿の里で、弟(次男)が生まれていた。
長崎市の応急住宅でも母は猫を飼った。
どこからか三毛猫を貰ってきた。
保存する穀物はないのであるが、何故か家中をネズミが走り回っていた。
猫は、家族の食べ残しに汁をかけたものを与えられた。子猫で貰い受けたが、1年もすると孕んだ。押し入れにある襤褸切れを入れる茶箱で、子猫4匹を産んだ。母は、子猫の引き取り先を求めて、近所を訪ね歩いた。3匹は貰い手が見つかった。
顔半分が黒い「二毛」の猫が残った。母猫は、その1匹の白黒の猫を大事に育てた。
母猫は、我子が満足するまで食べるのを見届けてから、やおら、餌の皿に近づいた。それを見て母は、
「ぐうらしか」
と、いつも呟いた。
「ぐうらしか」とは、母の里言葉である。「ひもじいだろうに、我慢して、けなげだね」ぐらいの意味合いであろう。
白黒の子猫は大きく育った。この時期、我が家に末の弟が誕生していた。大騒ぎの毎日であった。家族は6人の世帯となり、6畳間に折り重なる様にして寝た。父の給与は安く、母は毎日やりくり三段を繰り返していた。
「育ち盛りの子供4人を抱えて、猫を2匹を飼うのは正直苦しい」
と近所の人にこぼすと、
大学病院で、実験用の動物を求めているらしいよ」
と、情報を寄せてくれた。
母は、「暮らしが苦しいの。あんた、何か人様の役に立ってね」
と言って、その猫を紙袋に入れて、大学病院の動物実験の所へ運んだ。ところが、大学病院前で電車を降りた途端、猫は、紙袋から飛び出し逃げてしまった。
「どこへ連れて行かれるのか、分かったらしい」
母は、空の紙袋を持って帰ってきた。
母の表情は、何やらホッとした風に見えた。
それから3ヶ月ぐらい経った夕方、外で猫のなき声がするので、玄関の戸をあけると、痩せひごけた(痩せてやつれ、みすぼらしい)猫がヨタヨタと入って来た。電車の停留所で逃げ出した猫である。顔の半分が黒い、白黒の猫である。
「ニャー」と弱々しく鳴いた。
一家総出で猫を迎え入れた。
その後、猫と共に応急住宅の暮らしが続いた。母猫は10歳余りでなくなったが、白黒猫は、両親が、その後、通称・奥山という所に家を新築した時も、飼い猫として共に引っ越しをした。
一番下の弟がまだ幼い時は、猫は、卓袱台の弟のすぐ近くに待機して、弟がボロボロこぼす御馳走を待っていた。弟がよそ見していると、猫の手が卓袱台の皿に伸びた。
「猫が取った!」
と弟が泣くと、
「猫に取られない様にしなさい」
と、母は弟を叱った。
弟は、猫に育てられて賢く、すばやくなった。猫は名無しで終った。
「かまど」で、付け足し
「竈」で寄り道していくうち、「民の竈(かまど)は賑わいにけり」という短歌のフレーズが、口をついて出てきた。何処かで学んだ機会があったようだ。さらにまた短歌を辞書で調べると、その記述は、以下の通りである。
今の為政者は、どのようにして、民の日々の煮炊き(かまど)の様子を見ているのだろうか。
さて、次章は、「ヒバジル」について触れます。如何なるものか。
(田嶋のエッセイ)#8
「猿蓑 の 寄り道、迷い道」
第5章「竈(かまど)と猫」
2024年4月20日
著:田嶋 静 Tajima Shizuka
をお読みいただきましてありがとうございました。
(注釈・補足)
↓ ↓ ↓ *4 「とみ爺の家」 の補足 ↓ ↓ ↓
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