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【小説】裸足


彼女は、街にあるさまざまの喧騒で目を覚ました。


飲み屋通りで客引きをしている声、救急車の音、バイクのエンジン音、そんなところだろうか。音の正体もあまり正確には掴めないほど、外ではたくさんの音が交錯していた。眠りから覚めるとき、ここが家の中であることと、今が日付を超えた真夜中であることだけがわかった。理屈ではない、五感のどこかが彼女にそう教えてくれていた。


この馴染みのない街に引っ越してきてから一ヶ月が経過していた。この一ヶ月の間、彼女の周りではさまざまなことが起こっていた。それは彼女の外側の出来事でもあり、彼女の内面の出来事でもあった。内と外のどちらがどれくらい混じり合っていて、境界線はどこなのかも分かりようがない悩みばかりであった。この街の雑多な世界が、まるで彼女の出来事そのものを表しているようだった。


9月の気候は未だに夏である。クーラーが効いている部屋からでもしっかりと感じとれる外の湿度に、すでに夜は熱帯と化していることがわかる。それでも彼女は布団から身を起こして、掃き出し窓の扉を開けた。途端にたくさんの音たちが大きくなって部屋に響いた。そして湿度を保った淀みない空気がゆっくりと重たく流れ込んできて、後悔の念が一瞬だけ浮かび上がった。しかしそれも眠気と共に霧散した。5階のマンション、その最上階からの景色は、真夜中の世界を確実に写し込んでいた。ネオンの光、死んでしまった住宅街の一部、優しくない人の声、まるで私みたいだと感じた。この世界を見ている私がいるからこそ、どれだけ世界を認識しても、私でしかないのだということに気づいて、虚しくて、希望があった。そしてあとからやってくる絶望にも浸った。たかが一ヶ月のことなのにと彼女は毒づいた。



ベランダにとある名残がおいてあるのに気づいて、彼女はうんざりした。うんざりすることによって彼女は独りよがりに傾きがちだった日常から脱却した。名残とは先週ほど前に別れた男が置いていったサンダルであった。あの男は、いつもこのサンダルを履いてベランダに出て、景色を見ることもなく加熱式タバコを吸っていた。景色を見る代わりに、スマートフォンを忙しなく、意味もなく弄り回していた。彼女は彼のそんなところが大嫌いだった。そのおかげで別れたのではないかと今では思えるほどに嫌いだった。


別に付き合っている男がタバコを吸っていてもいい。酒に浸ろうがちょっとくらい浮気しようが、なんだかどうだっていい。でもなんとなく、そうやってスマホを弄り回している姿が気に食わない。こっちが話しているとき、一緒に歩いているとき、そうやってあの男は画面の向こう側にある何かを相手にしていた。そうやって間接的な物事に身を置いていた。これだけの現実があって、私が悩んで生きていることにも気づかずにただ放っておいていたのだ。


それが一ヶ月の間で溜まり続けていた。わがままで、傲慢で否定的な自分がどんどん構築されてきた。


「大っ嫌い」

頭のなかでその言葉が浮かび上がって、結局フってやったのだ。でも言葉にはしなかった。心の中でそう叫んだだけだった。今ではそれが正しいのかどうかでさえわからない。一生わからなくてどうしようもないままだと思う。フラれた男は、サンダルを持って帰る間もなく彼女の目の前から去っていった。


どうしようもなくただベランダから世界を眺めていた。かれこれ数十分は経過したかもしれないし、一時間は経ったのかもしれない。もうそれすらもわからなくて、最早時間の経過もどうでもよかった。ただ「大っ嫌い」という過去からの声がここに反響していた。大嫌いなあの男はこの景色からどこに住んでいるのかが確認できた。そう遠くには住んでいなかったのだから、わりと自由に行き来できる関係であった。アプリ内でのやり取りで知り合うことができ、現実世界で簡単に近づけた。簡単に恋人になって簡単にセックスまでして、簡単に別れた。 


残ったのは記憶だけだった。可愛くも美しくもない記憶だけであった。



その記憶一つだけでどうしようもない自分がいた。つながりというものに疑問が生まれた。私は決して賑やかしのためにつながりを求めているのではない。都合よく生きていくためにつながりを求めているのではない。できれば感動したかった。見てほしかった。そのどれもがちゃんと生きている証だった。そして見てあげたかった。生き物としての私と彼を感じていたかった。一つになるということは決してキスやセックスだけではない。


でもあいつは私がそう考えていることも大切ではなかったのだろう。あいつにとって私の考えなんて、軽くもなければ重くもない、ただのたくさんの喧騒の一つにしかすぎない。客引きをしている男の声、救急車のサイレン、暴走族のエンジン音。私の声は、それらと同じなのか。そんなこと、許せない。やっぱり「大っ嫌い」なのだ。



彼女は外に出ていた。


ベランダに置いてあったサンダルを履いて、蒸し暑い熱帯夜の街に繰り出していた。サンダルは男性用のなのでぶかぶかで歩きづらい。それを気に留める様子もなく彼女はずんずんと街中を歩いていく。


この街は汚いと改めて思う。
ところどころゴミ捨て場がカラスに荒らされていて、いたるところに放置自転車が野ざらしに置いてある。自販機の側面にはグラフィティが描かれ、タバコの吸い殻が歩くたびに踏み潰される。地下鉄の終電時間はとっくに過ぎていて、駅のホームへと続く地下への階段は人気がなかった。高架線下の車線も車通りが少なかった。ただタクシーだけがやけに走っていた。そして夜遊び帰りの男たちや、ホームレス、水商売あがりの女などすれ違う人は多く、どれも騒々しかった。「ハハハハハ」と笑う声、「おい」「ふざけんな」と喧嘩なのかふざけ合いなのかも判別がつかない声。


これが彼女の住んでいる街だった。人間関係とか、給料のこととか、残業のこととか、家族のこととか、過去のこととか、男のこととか、自分のこととか、全部この街に放出しても誰も見向きもしなさそうな街に住んでいた。
彼女は少し安心した。


バイパスの下の横断歩道を横切り、ホームレスが寝ているアーケード街を抜けて、鳩のフンにまみれた駅前を越え、一つのマンションに着いた。エントランスに入り、頭で思い出すことなく覚えている部屋番号を押す。


ピン ポーン


しばらく待ったが反応がない。もう一度押す。


ピン ポーン


・・・・・・


「・・・はい」
「・・・」
「はい?」
「・・・わたし」
「・・・」
「返すものがあるから」
「・・・」
「開けて」
「・・・・・・」


エントランスの扉が開き、その奥からさらに蒸し暑い空気が漂ってきた。オートロック越しから聞こえた声は気だるくて、眠たげで、懐かしかった。それを聞いた彼女は、なんだかせつないようで、虚しくて、そして新しい自分がいることに気づいた。その声を必要としない自分がたしかにいたのだ。


そこからの展開は早かった。
エレベーターで4階まで行くと早足で男の部屋の前に行き、インターフォンを押す。さっさと出てこいと威圧をかけるように、さらにノックもしてやる。我ながら騒々しい振る舞いをしていることに可笑しくなりそうになる。そのうちに、男がおずおずといった様子で扉を開ける。気だるげで、眠たげな顔だった。彼女はすでにサンダルを脱いで手に持っていた。


「はい、返すもの」


男がその言葉を理解するかしないかのうちに、彼女は持っていた片方のサンダルを思いっきり振り払って男の頬に打ち付けた。


バチン!


寝ぼけ眼の男は、頬への衝撃で完全に現実世界に引き摺り込まれて、しかし何もできずに呆気に取られていた。彼女は間髪入れずに、もう片方のサンダルをめいっぱい力を込めて男の鳩尾あたりに投げつけてやった。


「うげっ」


男がうめいた。


「大っ嫌い」


そう叫んで、強引に扉を閉めた。
返すものを返して、言いたかった言葉をぶつけて、もう用はなかった。蒸し暑いマンションの廊下を早足で駆けて、エレベーターに乗り込む。素足からひんやりとした床の温度が伝わった。



彼女は走り出した。


汚くて蒸し暑い街の中を走った。
すぐに足の裏が痛くなって、でもそれでも構わなかった。バイパスの薄暗い下の横断歩道を走って横切った。ホームレスが硬いコンクリートの上で寝ていた。道路工事をしている現場の一角を走り抜けた。作業員の誰もが仕事に夢中で、彼女に関心がなかった。走っているうちに足の痛みも感じなくなった。彼女は走るスピードをあげた。ああああと声に出してみた。誰も彼女とすれ違うことはなかった。もっと大きな声を出した。



ああああああ・・・。誰も気づかなかった。


家に着いてからは、ズキズキと疼く足裏を労わるように部屋に入った。薄暗い部屋はクーラーが点けっぱなしで涼しかった。荒くなった息を整えて、気持ちを落ち着かせた。掃き出し窓を開けてベランダに出てみた。慣れたような蒸し暑さがまた入ってきた。でもあの喧騒はなくなっていた。彼女を眠りから目覚めさせた音はみんな消えていた。みんな眠ってしまったみたいだ。救急車のサイレンも、客引きの声も、暴走族も、何も聞こえなくて、何も影響していなかった。彼女は安心した心地で扉を閉めて、カーテンを閉めて部屋を真っ暗にした。




「大っ嫌い」という言葉も、反響しなくなった。クーラーの音だけが響いた。暗闇の中で足裏のズキズキとした疼きを感じていた。男の頬を張ったときの音が過去から反響しそうで、でも気のせいだった。静かな空間。そのうち彼女は眠りについた。

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