ガラス細工の塔

少しずつでも虚構から逃れようとしている。ご都合主義の世界から、本当の冷たい現実の底に向かって行こうとする僅かな勇気が見える。それは本当に僅かで、マッチ一本分の勇気にも満たなくて、けれどゼロではない。確実に小さなもので、確実に大きな一歩である。あらゆる煩わしいものから逃れようとして、完全に殻に閉じこもって消えていくその自意識は、実はしっかりと生きていて、むしろ増幅していった。小さなみみっちい殻の中でそいつは窒息しそうになって生きていた。自分は死んでいなかった。死んでいなかったそのことがまるで奇跡だ。


本当のことなんて誰も教えてくれなくて、それなのにその誰もが本当に対してのヒントを与えれくれる優しさがあって、希望があって絶望もある。自分はこれまでにどれだけの人のヒントを踏み躙ったのだろう。そしてどれだけ踏み躙ってきた過去をなかったことにしたのだろう。人が怖くて仕方なかったのだ。どれだけ人が優しくて善意があっても、人付き合いがしんどいことには変わりない。他人はどこまでも愚かで、自分はどこまでも愚かだ。いちいち受け取っていたらキリがなくて、もうめんどくさくて、元にいたあのみみっちい殻の中に戻りたくなる。


殻の中は相変わらず冷たくて、ひんやりとした表面に肌が触れて一向に安心できない。おかしい。自分はあの、たくさんのめんどくさい人たちが嫌で嫌で仕方なくて、それでわざわざ逃げてきたはずなのに。だからその行動を讃えて、安心してしかるべきだ。しかし、べきだ、べきだと唱えても、一向に「べき」にはならない。


どうしたって心は求めていたこととは違う何かを見つめている。心は強迫性に対してどこまでも抗っている。こんなものは俺の求めていたものとは違うと、しっかり否定しやがる。なんだ、ちゃんとわかっていたのか。なんだか安心したような呆れたような気分だ。じゃあお前は、心の求めている世界を素直に認めて、とうとう外に出るのか。


ここまでして頑張って一人だけの世界をつなげて生きてきて、今までの過去を全部無かったことにして生きて行こうと決めて、それなのにお前は殻の外側に再び駆り出そうとしている。閉じこもるためだけにここまで頑張ってきたのに、だ。全くとんだ愚か者でしかないのだお前は。お前みたいな愚か者がいるから、人間はどこまでも愚かで、たくさん欲望を抱えて、争って僻みあう。まるで自分自身の鏡のように。鏡に映った自分を、果たして綺麗だと言えるのか。



言えないだろう。自分を綺麗だと言えなくて、惨めな気持ちを無限に積み上げてきたのだろう。それでも綺麗だと言いたくて、自分を綺麗なガラス細工だと照明できる現実を組み立ててきたのだろう。自我が強くなるたびに、認められない自分を否定して、理想の自分を組み立ててきて、しかしそれとは裏腹に、自我は膨らんでいく。にもかかわらず、理想の自分は構築され続け、とてもとても巨大な塔のように、それは聳え立つのだろう。まるで虚勢の塊だ。でも誰かが見てくれると信じていたはずだ。本当はこんなことをしたくないと内でわかっていながらも、結果に囚われて、実力に囚われて、散々自分を無くしてきた。そして高い高いガラス細工の塔を作り続けた。今でもその塔を作り続けている自分はいる。正直、壊したくはない。せっかく作ったのだから、壊すのは勿体無い。


別に壊す必要はない。過去と同じで、もう持ち続けるしかない。そのうち価値観の方向性が決まって、素直に塔を作ることをやめるのではないかと踏んでいる。塔を作るのをやめて、塔がなくたって生きていけると信じることができれば、ゆっくりと解体していけばいい。今はとにかく、殻の外側に意識が向き始めたことを素直に称えよう。大きな一歩なのだから。


大きな一歩をどこに踏み出すかはまだ決めていない。もしかしたらもう踏み出しているのかも知れない。足取りはどれだけ危なかしくても、踏み出すことで全ての答えが出る。1歩と0歩の差は、1歩と1000歩の差よりも大きい。それほど大きな一歩をお前は踏み出そうとしている。なぜだ。怖いものは依然としてたくさんあるだろう。中身は子供のままなくせに、なまいきに殻の外を歩こうとしてやがる。


中身はどれだけ子供でも、やっぱり大人になりたいのだ。大人になるには、恐怖に囚われていてはダメなのだ。何かを知るためには、自分を知るためには、大人にならなければならない。泣いている自分を認めなければいけない。間抜けでどうしようもない自分がいるんだってことを、他の誰でもない自分が気づいてあげなければいけない。じゃないと何を学習したって、空っぽの心が満たされないままだ。現実を見ない生き物が、頭でっかちになってぎゅうぎゅうの殻の中で苦しんでいるままだ。



自分は解放する。この恐怖で満ち足りた世界に向けて。嘘と本当に囲まれて信じる人もいなさそうな世界で。どうしたって人を信じると思う。

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