素麺を茹でる夏、鍋を突つく冬、時が過ぎる。


明日から唐突に二日間の休みをもらった。相変わらず唐突な休みである。
そして相変わらず豆乳鍋ばかり食べている自分である。寒風の到来したこの街札幌では、夜は家でゆっくりと鍋を食うに限る。どんなときでも焦らず騒がず、僕は鍋をコトコト煮込んで時の過ぎるのをみているのだ。明日が仕事だろうが、休みだろうがなんだろうが、鍋を煮て食う。

しかし毎日のごとく鍋ばかりの日々にそろそろ嫌気も差してきている。いくら味変のかぎりを尽くそうとも、結局は野菜と肉が入り混じった煮物にすぎない。寄せ鍋、しゃぶしゃぶ、カレー鍋、キムチ鍋、豆乳鍋、味噌鍋・・・味わいの空間をどれだけ豊かに広げたところで、限界の地点というものがあるのだ。鍋をどれほど煮詰めたって鍋の範疇から外れることはない。鍋が炒め物に変わるわけでもない。ハンバーグに変わるわけでもない、お造り盛り合わせになるわけでもない。鍋は鍋である。

それならばとレシピ本を購入して、新たな料理の開拓へと進むのみである。ブックオフに行き七百円ほどを出して、一人暮らし御用達の手軽な料理本を買った。これで、鍋ばかりで飽和された日常から解放されるのも約束されたようなものである。しかし、いざ鍋解放運動によるクッキングが開始されるのかと思いきや、結局は取り掛かるめんどくささに敗北した今がある。レシピ本はひっそりと棚のクローゼットの暗闇の中で長年の眠りについた。そして今日は胡麻豆乳鍋を作った。


いくら最近は鍋ばかり食べているからといって、別に年がら年中鍋を突いているわけではない。札幌にだって30℃を超える夏日がちゃんと来る。そんな日に飽き飽きした表情で豆乳鍋を煮込み続けていたら、狂人の類と傍目に映っても言い訳がつかない。流石に夏には夏の飯を食いたくなっている。今年の夏は素麺を茹でた。そして素麺ばかりの日々に飽き飽きしていた。いつも自分は飽和した単独レシピの襲来により、各々の季節感に準じている始末である。夏は素麺、冬は鍋。単純な一人暮らしのワンルームである。


しかし今は10月だ。勘違いしては困るがまだ冬が来ていないのだ。寒いシーズンはとりあえず鍋、という単細胞な思考でこの札幌を生きていたら、一年のうち五ヶ月くらいは鍋ばかり食べてしまう結果になりかねない。この調子だとどうせ3月くらいまでは寒いだろう。自分が札幌に引っ越したのは今年の5月のことだが、ゴールデンウイークが終わったというのに普通に寒かった。地球温暖化とかエルニーニョとかヒートアイランドとか、それは全部テレビの中だけの架空の話なのではと疑いたくなるような寒さの中で、自分は新千歳空港に降り立ったのだった。


それが5月の話で、今はもう10月になる。あれっ、時の流れよ早すぎるぞ。この五ヶ月間、自分は何をしただろうか。うだうだ悩んだり、小説を書いたり書かなかったり結局終わらせられなかったり、素麺を茹でたり鍋を突いたり。そんなこんなで、札幌生活が半年を迎えようとしているという、恐怖にも近い現実がもうすぐそこまで来ている。いくら追い払っても時間の経過に抗える術などない。ダラダラすればダラダラするだけ時は流れていく。ダラダラした分を取り戻すように機敏に動いても、元のダラダラした時間が取り戻せるわけではない。時間はもうこの瞬間に取り返しのつかない世界に消えていく。虚しいかぎりである。



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