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元文科省のキャリア官僚と考える、小難しくない教育改革のお話⑯

【病院生活よりも息苦しかった、僕の「小学校生活」】

 アメリカで教育を勉強し始めて、約1年間が経ちました。最近、愚痴っぽい文章が多かったですが(スミマセン…)、そろそろ勉強の成果を記すためにも、最初に書いた「子どもの自殺をゼロにする」という夢と、「学校を、もっともっと『自由な場』にする」というビジョンを実現するために、これから僕自身が何をしていきたいのかということを書いていきたいと思います。

 しかしその前に、なぜ上記のような考えを持つに至ったのか、僕自身の原体験を2つ、述べたいと思います。

 まずひとつめは、小学生の時の経験です。
 
 小学校2年生の時、僕は慢性腎炎という病気を患いました。これは、簡単に言えば、腎臓が炎症を起こし、尿と一緒に蛋白や赤血球が身体から出てしまう病気です。それまで何の兆候もなかったのに、学校の尿検査の後、先生から「病院で再検査を」と言われ、そして、再検査後、お医者さんから病気を宣告されました。
 病名を告げられた時、僕は、「何か薬を飲むぐらいなもんだろう」と考えていました。しかし、お医者さんから言われたのは、「入院治療が必要です」ということ。これはもう、当時の僕にとっては、この世の終わりのような出来事で、「イヤだ」と泣き喚いたのを覚えています。
 
 そして僕は、7歳という年齢で、約1年間、両親から離れて、ひとり病院に入院することになりました。小学校も当然、通っていた公立学校を離れ、病院に隣接する養護学校(今で言う特別支援学校)に転校することになりました。

 病院での生活は、もちろん楽しくはなかったです。ありがたいことに両親は毎日面会に来てくれましたが、毎週のように採血などの検査があり、運動も外出もできない。病室で、連日ゲームボーイをして過ごしました。
 そして、養護学校が、このストレスのはけ口になりました。授業はサボる、授業中にふざけて妨害をする。そんな日々を繰り返し、当時もらった通知表は、ひどい成績でした。
 
 そんな入院生活から1年。僕は病院を退院し、元の公立小学校に戻ることになりました。戻りたくて戻りたくてたまらなかった小学校。たくさんの友達とも再び一緒になることができます。
 ですが、小学校生活には、多くの制約が課されました。何より大きかったのが、運動全面禁止体育の授業には一切参加することができませんでした。また、課外学習や徒歩による遠足もNG。目的地まで母親の車で送ってもらって、学習活動や昼食だけ一緒に行った後、再び車で帰るという「特別プログラム」でした。第13回で「マイノリティ」になる経験のことを書きましたが、当時の僕は完全なる「マイノリティ」でした。
 
 結果、「みんなと違うこと」に敏感な小学生ですから、当然の成り行きとして、僕はイジメを受けるようになります。「人造(腎臓の病気だけに…)人間」というあだ名までもらいました。
 そして、これに対して僕が採った防衛策が「勉強」でした。身体が動かせない分、テストでよい点数を取れるよう、勉強に時間を費やしました。その結果、僕は、スクールカースト上位の「頭のいいヤツ」というポジションを入手し、そしてイジメはなくなりました。
 
 しかし、この後僕は、ある違和感を持つことになります。それは、「勉強(とスポーツ)以外が評価されない学校文化」への違和感です。そもそも、第3回で触れたように、公立小学校教員だった父親の信条は、「すべての子どもたちには、必ず輝く部分がある」ということでした。まさにその通りで、面白いクラスのムードメーカー、控えめだけどみんなのことを思いやれる優しい子、歌がとても上手な子、すごく手先が器用な子、電車のことだけむちゃくちゃ詳しい子、けん玉がべらぼうに上手い子などなど、クラスメート全員に「輝く部分」がありました。しかしこれらは、残念ながらクラスの中ではそこまで力を持ちません
 自分は、病気という「マイナス評価項目」を抱えつつも、勉強の力を使い、クラスの中で一定のステータスを築くことに成功しました。しかし、みんながそうできるわけではありません。家庭の状況によっては、勉強に集中できるような環境ではない子もいますし、そもそも、勉強に価値を見出せない子もたくさんいます。でも、そうした子たちが一旦「マイナス評価項目」を抱えてしまった場合、どんなに上記のような「輝く部分」があっても、挽回することは難しいのではないか。だからみんな、できるだけ「マイナス評価項目」を抱えないよう、他の人と違わないよう、びくびくしながら生きている
 父親の影響も受けた僕は、「これって何なんだろう。そして、勉強とそれ以外で、いったい何が違うんだろう」と、子どもながらに考えていました。
 
 そして、それと同時に、自分を守るためには「このポジションを守らなくてはならない」と感じていました。「おかしい」と思いながらも、それによって自分自身が守られている。おかしいのに、「おかしい」と言えば、自分自身の立場が危うくなる。だから、何も言えない。
 これはイジメの構図と同じです。自分自身へのイジメから逃れるための「防衛策」でしたが、それに成功した結果見えたのは、もっと大きなイジメの構図でした。直接誰かから何か意地悪をされるわけではなくても、静かに、しかし確実にいろんな子たちが苦しんでいる。そこには、子どもたちの「自由」を奪う、価値観と空気感によるイジメが確かに存在していたのです。
 
 そしてその結果、あんなに戻りたかった小学校だったにも関わらず、僕は息苦しさを感じるようになります。戻りたいとまでは思いませんでしたが、養護学校の時の方が、自分らしくいられたような気さえしていました。
 
 そしてそこから約20年後。文科省に入った後に、僕はこの違和感と「イジメ」の原因に気付くことになるのです。

 次回に続く。

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