見出し画像

元文科省のキャリア官僚と考える、小難しくない教育改革のお話⑧

【教師と生徒の関係は、「運動部の後輩いじめ」と同じ】

 Twitterでバズったこのツイート、悲しくも「あー、分かるー…」と思いながら読みました。なので今回は、校則や指導についてです。

 さて、僕が所属するミシガン大学教育大学院は、全米でも有数の「DIJE」(多様性・包摂・正義・公正=Diversity/Inclusion/Justice/Equity)を重視した大学院です。このため、「社会の不公正さに立ち向かうため、教育者は何をすべきか」という問いに、学生は何度も何度も向き合うことになります(日本の教育大学院で、この問いが投げかけられることってあるのかしら?)。

 ところで、皆さんは、「運動部の後輩いじめ」について、どう思いますか?後輩が先輩から、「指導」の名のもとに、肉体的あるいは心理的な暴力を受ける。「前時代的」「人権侵害」「言語道断」。そうですよねぇ、そうなりますよねぇ。でも、僕は、教師と生徒の関係も、実は同じメカニズムにあると思うのです。


「警察は時折、意図的に容疑者の人権を侵害する。
教師は頻繁に、無意識に生徒の人権を侵害する」

 と言われたりします。ぼくらの七日間戦争」が書かれたのは、なんと40年近くも前(1985年)ですが、悲しきかな、現在の学校にも通ずる部分がたくさんあります(現に、中2の息子が日本で通っていた中学校は、靴は白色以外履くこと禁止でした)。

 なぜこんなことが起こるのか。
 ここで「運動部の後輩いじめ」に立ち返って考えてみましょう。先輩が後輩をいじめるのは、「自分が後輩の時に、先輩にいじめられたから」です。「あの時つらい思いをした。立場が変わったから、今度は自分たちが行う番だ」という発想です。しかし、これは単なる「ストレス発散」や「快楽のため」ということではなくて、もっと根深い、「自分自身の過去を否定したくない」という、「本能的な防衛本能」に似たマインドによるものなのです。
 具体的に説明しましょう。人間、つらい経験は忘れたいものです。しかし、そういう経験に限って忘れられない。そんな時、人間はどうするか。それは、「その過去を肯定化できる理由」を必死で探すことになります。「あの時期があったから、今の自分がある」と、自分自身を思い込ませるわけです。それによって、つらかった日々も、今の自分も否定しなくて済むのです。

 では、教師と生徒の関係はどうでしょうか。
 学校の校則や指導は、教師の場合、「つらい経験」ではないことが多いです。基本的には、学校の中で「良い子」で育ってきた人が多いので、学生時代、「校則や指導に縛られて苦しんだ」というよりも、「当たり前のもの」として、特に疑問も感じず受け入れてきた人が多いでしょう。ですので、多くの教師は「あの時つらい思いをした。立場が変わったから、今度は自分たちが行う番だ」とは思っていません。むしろ、彼らの言い分は、「生徒たちのため」です。「ルールを守ることは社会人にとって不可欠。ルールを守れる子に育てなくては」という発想です(あとは「学校が荒れる」という恐れと、保護者から文句を言われたくないという心理)。

 ここで「運動部の後輩いじめ」と通ずるメカニズムが出てきます。
 つまり、どちらも、個々の「内容」(先輩からの「指導」の内容、学校の「校則・指導」の内容)の正当性については一切問うことなくあくまで「プロセス」だけを正当化しています。言い換えれば、「これまでの経験が今の自分を形作ってくれた」「ルールを守ることは必要」ということで、内容に深入りすることなく、一般論だけで全体を正当化する試みが行われています。

 なぜでしょうか。運動部の部員の場合、いじめの内容を思い出すことは、自身にとって過酷な営みです。また、あまり鮮明に思い出してしまうと、せっかく無理矢理「肯定化」できたものを、再び否定しなくてはいけなくなってしまいます。このため、ここに踏み込むことは避けたいという防衛本能が働きます。一方、教師の場合は、「考えたくない」のではなく、「考えることができない」のです。なぜなら、上記の通り、学生時代、「当たり前のもの」として、特に疑問も感じず受け入れてきたからです。内容を精査しようにも、精査するための「基準」を持ち合わせていないのです。

 内容を深く精査することなく、暗黙ものとして共有されている価値観のことを、我々は「文化」と呼びます。つまり、校則や指導の存在、そしてそれが40年以上も変わらず続いてきていることの背景には、「文化」があるのです。

 ここ数年、「ブラック校則」という言葉も登場し、少しずつ校則や指導を見直そうという動きも生まれ始めています。しかし、校則や指導の背後にある「文化」を見詰め直し、ここに踏み込んでいかない限りは、根本的な「治療」にはなりません。「教育委員会が言っているから」「他校もやっているから」で始めた校則見直しは、その後何かひとつでも生徒指導上の問題が発生すれば、「校則改革なんてやったから」「やっぱり校則で縛らないと」という声の前に、簡単に吹き飛んで、すぐ元に戻ってしまうことでしょう。

 では、文化を変えるにはどうしたらいいのか。プロセスはごまんとあり、正解は状況によって変わりますが、ひとつだけ必ず言えることがあります。それは、「文化を変えるきっかけを作り、そして新しい文化を深く浸透させていくことは、リーダーにしかできない」ということです。校則改革を教頭先生や生徒指導主事(あるいは外部の団体)に任せている校長先生の皆さん、その改革は必ず失敗します

 駅伝の原晋監督をはじめ、運動部の「文化」を変えることに成功してきた監督はたくさんいます。彼らの言葉も胸にとめつつ、「学校の不公正さ」に、立ち向かってみませんか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?