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元文科省のキャリア官僚と考える、小難しくない教育改革のお話⑬

【マイノリティになる経験】

 絶賛試験期間中です。1日に18時間ぐらい勉強してます。それでも課題が終わりません(なのに(なので)現実逃避でこの原稿を書いています)。

 最近思うのですが、教育者にとっての留学の最大の意義って、英語を学べることでも、異文化を理解できることでも、国籍を超えた友人を作れることでもなくて、実は「マイノリティになれること」にあるのではないかと。

 ミシガン大学教育大学院の授業でグループワークをすると、たいてい、①唯一の日本人、②唯一の40代、③唯一の男性ということで、「トリプルマイノリティ」になります。むちゃくちゃストレスフルです。

 何がストレスかというと、居心地が悪いのも勿論あるのですが、それ以上に、ひとつのことを説明するのに、ものすごくエネルギーが必要になるのです。マイノリティのハンディキャップというのは、マジョリティが持っている「共通認識」を持っていないことにあります。
 ですので、日本だったら「1」から説明すればいいところを、その背景の背景のそのまた背景ぐらいから説明しなくてはいけなくなるので、「マイナス5」ぐらいから説明する必要が出てきます。その分時間もかかるので、せっかちなアメリカ人からは、話している途中で「私の意見では」と割り込まれますし、一生懸命説明しても、結局「???」という吹き出し付きの怪訝な表情をされたりします。これが続くと、説明する気力が失われていきますし、「自分の意見を聞いてもらうのも悪いから…」という気がしてきて、発言を切り出すのに更なるエネルギーが必要になります。ですので、体感的には、同じことを説明する場合でも、日本なら「10」のエネルギーで済むところを、「300」ぐらい使って発言しているような気がします

 ただ、最近、実はこれこそが、教育者としての最大の財産なんじゃないかという気がしています。日本の学校で、マイノリティとして、しんどい思いをしている子どもたちが見ている景色が見えて、そうした子どもたちの日常における苦労と苦悩がよく分かります。
 多くの教育者は、マイノリティになったことがありません。彼ら彼女らは、先生や教育行政官になる前、学校では、常にマジョリティの中の、さらにヒエラルキーの頂点に君臨していました。ですので、基本マイノリティのことは眼中に無いか、「努力が足りない」と切り捨てるか、「かわいそう」ぐらいにしか思っていません(僕自身がそうだったように)。

 しかし、マイノリティを経験して強く思うのは、「かわいそう」と思われると、より発言するのにエネルギーが必要になるということです。「かわいそう」の背後には、「コイツは自分より劣っている」という認識がありますので、そう思われていると考えると、さらに「自分の意見を聞いてもらうのも悪いから…」という気持ちになります。

 なので、マイノリティへの支援として必要なのは、単に「グループに入れてあげること」とか「発言を振ってあげること」とかではなくて、「複数の価値観を作ってあげること」なんじゃないかと思うのです。教育大学院にも、これがとても上手なクラスメートがいて、アメリカ人で議論が盛り上がっているところで、「コレ、私たちだけで議論してちゃダメじゃない?留学生の視点も入れないと」とか「Tak(僕)は教育行政の経験が豊富だから、私たちとは違う景色が見えてるでしょ?聞かせてよ」とか言いながら、自然に話を振ってくれたりします。教育者として大切なのは、これをひとりのクラスメートの頑張りに期待するのではなく、こうしたことが自然と起こる雰囲気を作ることにあると思います。これってまさに、「学校文化」「学級文化」の変革ですね。

 来るべき夏学期と秋学期を通じて、これまでの勉強の締めくくり(キャップストーン)として、アメリカや日本を含めて様々な国で教育改革の研究を行ってきた教授の指導のもと、「学校文化の変革に向けた校長の人材育成」をテーマに、研究を行うことになりました。この変革が実現できれば、「マイノリティ」は「マイノリティ」ではなくなり、「オルタナティブスクール」も「オルタナティブ」じゃなくなると思うのです。それがここでマイノリティを経験させてもらったことの意義かなと思っています。

 そんなことを考えながら、試験勉強に戻ります(AM 2:05)。

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