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どうかラオスで出会った友人たちの話しを聞いてください!

どうか、聞いていただけますか?
僕がラオスで出会った友人たちの話しを。
僕が訪ねた通称”スプーン村”での話しを。

彼らと出会ったのはもう彼これ9年も前になります。
この9年間、あの友人たちのために行動できていないことが、ずっと引っかかっていました。

日々の忙しさにかまかえて、このままずっと動かないままなのか。
そんなの嫌だ!

なのでどうか聞いていただきたいです。
当時の日記を元にして、なるべく当時の感情を添えて届けたいと思います。
長くなりそうなので、これから何回かに分けて投稿します。
一人でも多く彼らのことが届きますよう、どうかお付き合いください。


僕が彼らの村を訪ねた時、ちょうど雨季真っ最中でした。
どんより雲かかった日々でしたが、記憶に映る景色は今でも鮮明です。


ラオス シエンクワン県とは

彼らの村はラオス北部に位置するシエンクワン県に位置します。
このエリアはベトナム戦争のアナザーストーリーとでもいいますか、シークレット・ウォーと呼ばれる争いで投下された不発弾や地雷が大量に残っています。

ベトナム戦争時、北ベトナムから南の主要戦地だったサイゴンまでの物資補給のルートが隣国のラオスを通っていました。
これが通称”ホーチミンルート”です。
このホーチミンルートにアメリカは200万トン以上の爆撃を行いました。
当時ラオスの人口が約200万人だったらしいので、一人当たり1万トンの爆弾が投下された計算になります。

いってしまえばベトナム戦争のとばっちりをくらったラオスは、こうして不発弾が未だに大量に残ってしまっているのです。

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実はここシエンクワン県を含むいくつかの村では、地雷や不発弾が重要な観光資源として成り立っています。
”ダークツーリズム”という言葉もありますが、戦争の負の遺産と共に生きる人たちを訪ねた旅でした。
ウォーカルチャーというやつです。
ウォーカルチャーとは戦争の名残や影響が、日常生活に溶け込んでひとつの文化になっている様を指します。

シエンクワン県では一般向けの食堂にも爆弾が飾られています。

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以降は、当時の旅の日記を元に書いています。
僕も当時にタイムスリップして書き出します。
どうか皆様も、ここからは別の読み物として読んでみてください。


序章「スプーン村を訪ねて」

朝から雨が降り続いていたその日、僕はガイドを雇ってとある村へ向かった。
その村では不発弾や地雷からスプーンやブレスレットなどのアクセサリーを売っているという。
ウォーカルチャーの一端を見て、その中で生きる人たちと言葉を交わしてみたい、そんな旅だ。


僕は着いてすぐ、MAG(Mines Advisory Group)という地雷撤去団体を訪ねた。
プロジェクトマネージャーに会うことができたことは幸いで、スプーンを作っている家族を紹介してくれた。

ナフィアという村だった。
翌日その村を訪ねて、ある家族と出会った。
恰幅が良く愛想がいいお母さんと、寡黙なお父さんがせっせとスプーンやブレスレットを作っている。
僕はスプーンを作る様子を見学させてもらった。

不発弾からアルミの部分を摘出し、それを溶かし、専用の木枠に流し込む。
固まったアルミを取り出したら完成だ。
手際よくスプーンが作られていく。
一日に約800~900もの商品を生産しているというのだから驚きだ!
ちなみに、現地の人も買うからという理由で、ブレスレットよりもスプーンを多く作っているらしい。

アルミでできたスプーンはどれも美しかった。
見た目とは違い、とても軽い。
この家族は、アルミ製のグッズ生産のおかげで、食べる物を得て子どもも学校に行かせるほどの現金収入を得ることができている。

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愚かだと分かっていても、聞かずにはいられなかった質問

僕はこの村に来てずっと気になっていたことを恐る恐る質問してみた。

「あなたの隣人を含め、人を傷つける不発弾や地雷を扱うことに対してどう思いますか?」

愚かな質問だとは分かっていたよ。
彼らを否定しかねない質問だとも思ったから。
けれど、憎いはずの悪魔の代物に対する彼らの複雑な心情を推し量りたかったんだ。

少し黙った後、お母さんはこう答えてくれた。
「不発弾や地雷が、人を殺める憎むべき物だとは分かっています。けれど、私たちは他に生きる術を選べないんです」


爆弾の投下が多かった地域は今でも道路や畑に爆弾が残っているという。
物流の妨げになっていたり、農作業ができないという状況も珍しくない。

そんな彼らは自分たちを傷つける憎むべきモノと、共存していくことを選んだ。
いや、それしか選べなかった。
お母さんがどんな気持ちで言ったのか僕にはまだ推し量れなかったけれど、呟いた瞬間のお母さんの表情は変わらず優しかったのを覚えている。


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つづく

明日からは、村を歩いて出会った4人のお話しを紹介したいと思います。
見に来ていただけたら嬉しいです。


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