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こころの居場所はありますか?

 離婚してすぐの頃、カウンセリングを受けていた。
「私、居場所が無いんです」と訴えた。
楽しいことがあっても、そこは私の本当のいるべき場所ではない気がするのだった。
「居場所って言われてもねぇ」とカウンセラーも困った顔をしていた。
家庭を大切な場と考えていた私は、離婚をしたゆえに居場所を失ったのだと自分で結論づけてみた。
 離婚理由は元・夫の金銭問題とDVだったが、それについては論点がズレてしまうので今は言及しない。
とにもかくにも結婚20年を過ぎてから離婚せずにはいられなかった事態を悔しく思った。家庭を大事にしてきたゆえの我慢も沢山あった。それなのに、選ばなければならなかった道が無念でたまらなかった。
 
 歳月が経ち、
「では、結婚生活・家庭生活を営んでいた時には私に居場所はあったのか」と自問してみると、決してそうでは無かったことに気づいた。
 若いころからずっと”居場所”を探して求めて彷徨っていた心。
学生時代には講義に派手なドレスで出席してみたり、ティーンエイジを過ぎた頃には芸能界の扉を叩こうと新人女優の発掘オーディションを受けたりしたこともあった。人と違うなにかしらを決行することで、そこに居場所と生きる意義を見つけたかったのかもしれない。
 大人になってからは耳たぶに八つのピアスホールと、胸元にはタトゥーを彫った。髪の毛はブリーチを繰り返して金髪にした時期もあった。
いつだって無意識のうちに、きっと”居場所”を求めていたのだろう。
 しかし今、病に臥す私は居場所探しをしなくなった。自身の弱さを認めて、その上で他者の悲しみ苦しみに心を寄せることを決意したのだ。
それこそが「私の生きている意義」だと覚悟にも似た思い。
 逆説的だが不運と病の闇で生きていく光を見出したといえる。
 
「山のあなたの空遠く幸住むと人のいふ。ああ、われひとと尋ねゆきて、涙さしぐみ、かへりきぬ。山のあなたになほ遠く幸住むと人のいふ」(カール・ブッセ『山のあなた』より)
                            
 遠い彼方に求めるのではなく、死に様を考えて生きるときに「此処にこそ居場所」はあったのだと、自身のこととして補足したい。

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