「米留学の出発にあたって⑵」

 僕を本気で「学問」と「教育」に向かわしめたものは、”左翼学生との激しい対決”であった。「全学連との対話の場」を持ち、彼らを「領導」しなければとの願いも、現実には暴力的対決を余儀なくされる毎日の連続で、彼らを説得し、感化する手立てをどこにも見出すことができなかった。
 彼らの心を開き、彼らを変革せしめる言葉を持っていないことが問題なのだと僕は思った。幾多の運動の中で確かに僕は彼らに語り掛けるべき”生きた本物の言葉”を見失っていた。自らの思想力、感化力の貧困さが悲しくて悲しくて仕方がなかった。
 多くの学友を変え得る開かれた言葉を持ちえないで、仲間内だけで決意し合い、使命感に浸っていたって、それが一体何になるのか。現実に対して何ら変革力を持ちえない自己満足的な運動をこれ以上何年繰り返しても無意味だ、と僕は痛切に感じるようになった。そして、一般学生や左翼学生との”すれ違い”の奥にあるものを一つ一つ埋めていく懸命な努力に徹しようと堅く心に誓った。
 
●「戦後」とは一体なんであったのか
 そう心に誓い、新たな歩みを開始した僕の上に重くのしかかってきたのは、”すれ違い”の根底に潜んでいる「戦後」という時代、戦後思想、戦後教育とは一体何であったのか、という問題であった。
 とりわけ戦後教育が生み出した現代青少年の「魂の荒廃」を救うためには、新たな精神復興運動としての教育運動を起こしていく以外にないと僕は確信するに至った。…高校教員として教育運動を支えることと、早大大学院での勉強を両立させることは極めて困難な道であった。
 博士課程に進もうと考えていた僕には、1科目でも”良”を取ることは許されなかったし、とりわけレポート提出や語学試験を目前に控えた7月に、教育研修合宿の実行委員長として準備の全責任を負わねばならなっかったことは、絶体絶命の崖っぷちに立たされている思いであった。
 全国の教員同志への電話オルグを終え、酔っ払いで満員の最終電車に飛び乗って自宅へ着くと、いつも午前1時を過ぎている毎日であった。疲れ切った身体を引きづって家に着くと、そこに待っているのは、気が遠くなるような、英語の専門書と多くの課題レポートであった。しかし、弱音を吐くことは僕には許されなかった。
 どんなに疲れていても、元気を奮い起こしてそれから勉強を始めるより他に僕には道がなかった。そんなある日身体をこわし、医者から「心臓が異常に大きくなっているので、2,3か月静養しないと駄目だ!」との忠告を受け、僕の頑張りもこれまでか、と思い、無念の涙で椛島委員長に辞表を書いた。
 しかし、教研会宿を目前にしてここで僕が辞めることは、今まで僕が自らの支えとしてきた祖国への思いや運動に全てを懸けてきた自らの生き方、そして同志たちや後輩たちに叫び続けてきたことを悉く否定することになり、そのことは、僕にとっては耐えられないことであった。
 「倒れるまで頑張り抜こう」そう思い直して、辞表を破り捨てた。先輩から「髙橋君、大丈夫だよ。僕も心臓が止まりそうになったことが何度もある」と励まされ、本当に嬉しかった。

●アメリカ留学への挑戦
 その後も何度も”肉体的限界”の壁にぶち当たり、これ以上両立は不可能と断を下さざるを得ない状況に追い込まれたが、そのたびに自分の特殊事情を根拠に「自己弁解」して「弱音」を吐こうとする自分と闘い、闘い、闘い抜いてきた。
 しかし、無理がたたってか、視力は両眼とも1,5から0,15に急速に落ち込んでしまった。…いかに自分の能力が貧しく力足らざるとも、誰にも頼らないで、自分の手で、自らの力で、直接資料を調べ研究を行い、”戦後の虚構”を突き崩す一点突破の尖兵となるしかない、と腹を決め、アメリカ留学を決意したのであった。
 宿願の「元号法制化」が実現し、一段落した時点で椛島さんをはじめとする方々に「留学の決意」を披歴したものの、英語の実力は留学試験の合格基準をはるかに下回る有様であった。
 大学時代の4年間、全く英語の勉強とは無縁であったことは、僕にとって大きなハンディキャップであったし、GRE(大学院の共通一次試験のようなもの)の試験問題に数学が3分の1の比重を占めることも大きな負担であった。まさか28歳になってから数学や英語のヒアリング・スピーキングの勉強をする羽目になるとは思ってもみなかったことであった。
 ともかく”臨戦体制”を敷かねばならないので、従来の高校の社会科教師、家庭教師の他に、語学学校、英文のタイプ学校、英会話の個人レッスンに通わねばならなかった。米大学院での授業はディスカッション中心で自分の意見を明確に述べられない者は無視されるとのことで、必死の思いで英語の猛勉強に打ち込んだ。
 最初は全く歯が立たなかった留学試験も回を重ねるにつれて、高得点を上げることができるようになり、ついにフルブライト留学生に要求される得点を50点以上オーバーするに至った。その結果、希望するどの大学院でも入学が可能となり、目下考慮中である。
 
●占領史研究の関係者を訪ねて
 占領史研究の予備調査のため、まず元文部省調査局審議課長の西村巌氏宅を訪ね、教育基本法の制定過程において、「伝統の尊重」という字句が民間情報局の圧力によって削られたいきさつを詳しく聴いた。当時民間情報教育局と直接交渉にあたった生き証人の証言が、戦後35年間何故かくも無視され隠蔽され続けているのか、全く不可解であると思った。
 続いて、憲法学を専攻しておられる早大教授の小林昭三氏の研究室を訪ねたところ、日本国憲法の制定過程に関する米側資料を本格的に調べた日本人は一人もいないので調べてもらいたい内容を一覧表にして渡米前に手渡すから、是非資料を送っていただきたい、ということであった。
 次に、占領史研究会の会員である福島銃郎氏宅を訪ねたところ、「占領史研究会といってもね、7,8年前はたった3人だけだったんですよ。その3人が何の展望もないまま御茶の水の喫茶店に集まったのが最初で、現在でも常時月1回参加しているのは、ほんの7,8人だけなんですよ。リーダーの竹前英治先生は長年の御無理な研究がたたって4,5年前から”全盲”になられ、それでも奥様に英文の資料を音読させて、資料の調査研究を続けておられるんですよ」という感動的なお話を伺った。
 さらに一面識もない僕を最寄りの駅まで送って下さる車中で、福島氏のお父さんから「息子は42歳だけれど、ガードマンをやりながら、一財産を占領史の資料収集につぎ込んでいるんだよ。英語なんて全く分からないのに、もう何回もアメリカに行って資料発掘に懸けているんだよ」という話を聞き、「これは絶対に負けられない!」と強く思った。
 


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