日本的感性を育む国語教育の再建一戦後最悪の国語改革を憂う

戦後最悪の国語改革一的を射た読売新聞社説

   本居宣長は平安時代の文学作品に見出した「もののあはれ」が、日本の心であると捉えた。俳句や唱歌の持つ情趣、近現代の小説作品に至るまで、その味わいを理解するには、「もののあはれ」に振れ、感得することが重要である。
 文科省は、グローバル化が進む世界で生き残ることができる人材の育成を教育の目的にしているが、「論理国語」と「文学国語」に二分し、「古典」か「現代文」かの二者択一迫るような新学習指導要領は本末転倒と言わざるを得ない。
 論理ばかりを教えてもコミュニケーション能力は向上しない。なぜなら、文章でも会話でも求められる「余白を詠む」能力は、形式的論理だけでは身に付かないからである。
 同じ文字で記された一つの文章について、字義通り理解すればよい場合もある。しかし、その文章を発した人間の思考や、文脈や状況などの背景を考えると、異なる意味が見えてくる場合もある。

 昨年度から始まった国語改革にによって、かつての「ゆとり教育」で導入された「総合学習」が目指した授業が、新学習指導要領で改訂された高校の国語教科書で再現されており、極めて懸念される。小林秀雄、福田恒存、江藤淳が生きていたら激怒するであろう戦後最悪の国語改革といわざるを得ない。ちなみに、今回の国語改革について読売新聞社説は、次のように指摘しているが、的を射た指摘といえよう。

<必修の『国語総合』を『現代の国語』と『言語文化』に分け、『論理国語』や『文学国語』などの選択科目を新設したところ、文学関係者から『論理と文学を分けられるのか』との批判が出た。現場に『論理か文学か』の選択を迫るような教科の再編には、問題がある。論理国語や文学国語の教科書検定は21年度になるが、文科省や教科書会社は、生徒が文学に親しむ機会を失わないよう、十分に留意してほしい。>
 
 「現代の国語」は評論や法律、説明書などを扱う科目と位置づけ、討論や発表などの「アウトプット」に力を入れる。論理的・実用的な国語力を培う時間を確保するのが狙いで、レポートの書き方やグラフの読み解き方など実用的な教材を載せている。しかし、実用性に軸足を移し、「実社会で求められる言語能力の育成」に主眼を置く国語改革は国語嫌いを増やすだけではないのか。
 学習指導要領に明記された「国語の目標」の一つは、「言葉を通して他者や社会に関わろうとする態度を養う」ことにあるが、「他者」には「死者」も含まれていることを忘れてはならない。毎日新聞によれば、文部科学省が出版社を対象に開いた新学習指導要領の説明会で、「『現代の国語』に文学作品を載せてはいけないのか」との質問に対して、文科省は「それで論理的な思考力が育めるのか」とけん制したという。

●「生きる力」の根源に触れる国語教育の弱体化

 「論理的思考力の育成」「アカデミックライティングの基本の定着」「コミュニケーション力の伸長」等の「資質・能力」を重視する「現代の国語」が「話すこと・聞くこと」に偏重しているのは、「ゆとり教育」において、「読むこと」よりも「話すこと・聞くこと」「伝え合う力を高める」ことを重視して基礎学力の低下を招いた失敗を繰り返すことになるのではないか。
 「生きる力」の育成を目指しながら、文字言語である文学作品を「読むこと」を通して「生きる力」の根源に触れ、人間形成、価値形成に役立つ意味の発見につなげることが国語教育に求められているにもかかわらず、逆に「生きる力」を弱体化する改訂になっている。
 近年、大学では「アカデミック・ライティング」という科目が新設され、レポートや論文の作成の仕方を教えることを重視しており、その基本的な内容を教えて、大学の卒業論文やレポート作成に役立てようという狙いであろうが、浅薄なキーワードが教科書に乱舞する「アクティブ・ラーニング」が「生きる力」の育成につながるかは大いに疑問である。
 「読むこと」よりも「話すこと・聞くこと」を重視するのは本末転倒である。人間形成に役立つ文学作品をじっくり熟読吟味し、その価値や意味への気づきを深めて自らの考えや価値観を形成することによって「話すこと」ができるようになるのではないか。文学作品の価値や意味への気づきを深める指導を十分にしなければ、自分勝手な浅い読み取りに終わってしまう危険性が高い。文字言語を軽視する音声中心・活動中心主義・「論理」中心主義の国語教育の危機については、以下のように多くの識者、月刊誌が警告を発している。
 ・伊藤氏貴「高校国語から『文学』が消える」『文芸春秋』2018年1月
 ・阿刀田高「高校国語から文学の灯が消える」同2019年1月
 ・日本文藝家協会「高校・大学接続『国語』改革についての声明」同
 ・文藝春秋『文学界同9月号特集「文学なき国語教育が危うい!一入試激変、カリキュラム大改編」
 ・集英社『すばる』同7月号特集「教育が変わる 教育を変える」
 ・『季刊文科』78号(同7月)特集「国語教育から文学が消える」
 ・紅野謙介『国語教育の危機』ちくま新書、2018年
 ・同『国語教育混迷する改革』同、2020年

GHQの国語改革によって喪失した「国語科独自の使命」

 実用的な活動中心の「ゆとり教育」時代の学習指導要領には、国語科で取り上げる教材を選定する観点として、別表の10項目が示されているが、「我が国の文化と伝統に対する理解と愛情を育てるのに役立つこと」「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家・社会の発展を願う態度を育てるのに役立つ」という項目に該当する教材数は極めて少なかった。
 戦後の国語教育はGHQによってアメリカの「コース・オブ・スタディ」を参考にして、経験を通して学ぶという実社会の生活を基盤とした経験主義的単元学習の方法が導入され、「学習指導要領(試案)国語科編」が作成された。国語科の領域として「話すこと(聞くことを含む)・綴ること(作文)・読むこと(文学を含む)・書くこと(習字を含む)・文法」の5領域が示されたが、東大教授であった時枝誠記氏は、戦後のGHQ主導の国語改革につて次のように厳しく批判した。
 
<国語教育界の混迷の一の原因が、戦時中から今日に及ぶ国語教育界の主体性の喪失ということにある。…読むための学習に応ずる国語読本が重要な役割を占めて居ったことも、著しいことであって、このことが終戦後批判の対象になり、文字言語よりも音声言語を重視しなければならないということが盛んに主張されて、発表とか討議ということが重要視されるようになった。従来、国語読本といえば、専ら読書力の涵養を目標として編まれたものであったが、最近は、…調査や研究の興味を刺激し、相互に意見を交換し、是非を討論するためのきっかけを作るものにすぎないものと考えられるようになってきた。…国語科の負わねばならない独自の使命について深く考えないということは、最近の国語教育の一の著しい傾向ではないか。>
 
 昭和26年の学習指導要領の改訂でこうした経験主義が見直され、言語に基づいた目標が設定され、「話すこと」は独立した領域になり、昭和33年の改訂では、「聞くこと・話すこと」が一つの領域となった。このように国語の目標や領域は学習指導要領の改訂と共に変化し、言語の教育としての立場が重視されるようになった。さらに「ゆとり教育」によって文字言語より音声言語中心、活動中心主義へと転換したが、今回の高校国語教科書はその失敗を繰り返す恐れがある。

歴史と古典に根差した「実生」の苗と実用性重視の「挿し木」の違い

 言語生活を基盤とした国語教育では、文化の種子を歴史や古典という土壌から吸い上げることが大切であり、「実生の苗は百年を越えて成長するが、挿し木による苗は百年経つ前に暴風雨で倒れてしまう」といわれるように、文化の核となる歴史や古典という根にしっかり根差した国語教育は実生の樹木のように百年を越えて成長するが、時代の流行を追う先のような実用的国語教育は、年輪という断面になっていて芯になる核が失われているために、百年経つ前に暴風雨で倒れてしまう運命にある。
 国語教育も道徳教育と同様に、ジョナサン・ハイトが指摘した「情動的直観」に古典を核とする文学作品を通して働きかけることが重要である。国語の文化としての歴史性という価値のレベルや歴史性の意味という視点から、常に「教育の目的」を確認することが大切であり、この目的意識は常に因果関係を尋ねる原理の探求心となり、教育の本質・内容・方法・評価を貫く羅針盤となるものである。
 ところが、国語教科書では日本人の美しい感性を養うべき古典的な教材は著しく軽視され、現代の表層に現れた、ほとんど意味を欠落させた無味乾燥で深みのない荒涼とした世界に誘う教材で満ち溢れている。
 歴史教科書は日本の歴史に対して許すべからざる冒涜と歪曲を行っており、新科目「歴史総合」12冊中9冊に「慰安婦」記述が復活し、再び自虐的な傾向が強まっている。一方、国語教科書は歴史の冒涜と歪曲にとどまらず、古典の軽視によって、日本民族がこれまで涵養してきた豊かな感性の根を断ち切ろうとさえしている。実社会に役立つ実用的な「論理国語」を選択する高校生が大多数を占めることが予想される。この国語教育の「深刻なあやまり」を正すことが、教育関係者のみならず、日本国民の全てに投げかけられている課題ではないのか。

戦前の「唱歌科」から戦後の「音楽」へ一安倍昭恵夫人との対談で伺いたいこと

 俳句などは前述した「余白」によって成立する文学である。日本文化の神髄を感得するには古典の素養も重要である。例えば、「降る雪や 明治は遠くなりにけり」という中村草田男の句がある。
 雪が降っていることと、明治が遠くなったことは、論理的には関係がない。全く関連しない事実の羅列に過ぎない。しかし、静かに雪が降る様子をしみじみ眺め、明治の頃に思索を巡らせる作者の情景を思い浮かべれば、「月日が流れてしまった」という作者の感慨を追想することができる。
 戦後、「唱歌」は「音楽」へと変わり、次第に文科省唱歌が歌われなくなってしまった。唱歌は出身地や職業を越えて、今でも同世代の友人との共通の話題でもある。
 太平記の名場面である楠木正成・正行の別れを描いた『青葉茂れる桜井の』(落合直文作詞、奥山朝恭作曲)という唱歌があるが、楠木正成は主君の命令で、負けて死ぬことが分かっている湊川の合戦に向かわなければならなかった。
 そこで子の正行に「お前は故郷に帰れ」と命じる。正行は父と一緒に足利尊氏と戦って死にたいと懇願するが、正成は説得して河内に帰らせる。同唱歌の最後の歌詞は、「いましはここ迄来れども、とくとく帰れ故郷(ふるさと)へ」で、日本人の心の琴線に触れ、万感胸に迫るものがある。
 戦前まで小学校に「唱歌科」という科目があり、意味がよくわからなくても、先生から歌詞を教わって暗誦し、皆で歌うことによって、子供たちは日本語特有の言葉の響きを身に付け、日本的感性が育まれてきたのである。
 唱歌や和歌、俳句などを通して美しい日本人の心を育ててきた国語教育を取り戻さねばならない。安倍元首相は『美しい国へ』(文春新書)という著書において、「日本」という国のかたちが変わろうとしていることについて警鐘を乱打しているが、国語教育・歴史教育の根本的な見直しが必要である。
 靖国神社崇敬会主催のシンポジウムのパーソナリティを私は20年務め、安倍元首相とも対談したが、今年は安倍昭恵夫人と対談するので、本稿で述べてきた問題についても所感を伺いたいと思っている。
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?