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明治の人

 前回、小林秀雄という文芸批評家について触れたので、その続きを書くことにします。この人は「批評の神様」と言われ、かつては国語の教科書にも載っていたし、文化勲章やら褒賞やら、さまざまな文学賞を受けている人だから、今さら説明する必要もないくらいの有名人と言っていいだろう。
 著作集や全集も、なんども版を変えて出版されているし、いろいろな編集で文庫版も出ていますから、本を一冊や二冊持っている人も少なくないだろう。
 でも、この批評家に親しみを感じるという人はそんなに多くないかもしれない。理由は単純明瞭、偉すぎるから。文章もむずかしい。簡単には読めない。
 私の場合、フランス文学を専攻したということもあるし、なんの因果か翻訳家になってしまったので、この偉大な、翻訳家であると同時に批評家でもある文学者は、永遠の宿題のような、目の上のたんこぶのような存在でもある。
 小林秀雄の後に続く世代の文芸批評家のほとんどが彼の影響を受けている。影響云々というよりも、彼は「批評」という世界そのものをつくりあげた人だから、後世の批評家はみなその世界の空気を吸っていると言ってもいい。彼には「文芸批評家」という肩書きはふさわしくない。なぜなら、彼は音楽批評もやったし、美術批評もやったし、洋の東西、時代を問わず古典を論じ、哲学を論じ、科学さえ論じた人だから。
 こんなに自由だった人はいない。こんなに融通無碍に対象を論じた人はいない。
 でも、それを語り始めると収まりがつかなくなるから、思い切り身近なところに話を持っていこう。以下は、いつものようにブログからの再録である。

 子供のころ、二人の祖父がいた。父方と母方の祖父、どちらも健在で明治の生まれだった。
 父方の祖父は農家の長男として宮城県に生まれた。北海道開拓のいわば第二世代に当たる人で、北海道で一旗上げたら故郷に戻って実家を継ぐはずだったらしいが、結局この地で骨を埋めることになった。彼の胸中にあった「一旗」がどんなものだったか、どんな思いで老後を迎えたのか、おそらく彼は誰にも語ることはなかった。
 母方の祖父は、弟子屈という温泉町の大地主の家に婿入りした人だった。戦前は天皇の所有地である御用林を管理する役人だった。彼の生まれた実家は弘前の資産家だったようだ。兄弟が何人いたのかは知らないが、長男は東京帝国大学を首席で出て、満州国ではかなり上位の官僚だったらしい。でも、それが徒——私の母親の言葉——になって、シベリアに抑留されたまま還らぬ人となった。
 父方の祖父は、私の学生時代の最後の年に死んだ。死の床で小さな盃一杯の酒で唇をぬらしてこの世を去った。私は死に目には会えなかったが、葬儀には出た。告別式には出たが、火葬場で骨を拾うことができなかった。二十歳をとうに越えているのに、祖父の死を受け入れることができなかったのである。
 母方の祖父は、私がアルジェリアに出稼ぎに行っているときに、この世を去った。まさか祖父の葬儀のために帰国するわけにもゆかず、妻が幼い娘二人の手を引いて参列した。この年、妻の父が亡くなり、私たちの仲人をつとめていただいた方までが亡くなった。自分は何か間違ったことをしているのか、地中海に沈む夕陽を見ながら、漠然とした罪悪感が頭をかすめていった。
 父方の祖父は農学校を出ていたので、開拓農民の子供を教える小さな小学校の教師として郡部を転々とした。当時の大方の入植者と同じように、畑を耕し、馬、豚、羊、鶏を飼い、半ば自給自足の生活を送った。定年退職で教員を辞め、帯広市内に居を移してからも悠々自適の隠居生活からはほど遠く、朝は牛乳配達員として近所に瓶詰めの牛乳を自転車に満載して配り歩き、午後からは運送会社の運転手たちにパンと牛乳を売りに出かけるのが、彼の日常だった。家にちゃんとした寝室があるのに、わざわざ裏庭の物置の一角にベッドをしつらえ、そこで寝起きしていた。
 母方の祖父は、戦後、営林署の職員となったが、婿入りした弟子屈の家はアメリカの占領政策によって資産の大半を失った。相続権を持つ祖母は、最後に残った土地屋敷を売り払い、家は札幌に移った。当時はまだ空き地の目立つ宮の森という郊外の土地に家を建てた。すでに嫁いでいる長女の母を除いて、男四人、女三人のきょうだいと両親二人の大家族が住む家であったから、居間や食堂を含め、全部で十室くらいはあったろうか。その南側には家の敷地と同じくらいの面積の庭があった。営林署勤めの祖父は、木材の手配はもちろんのこと、家の設計まですべて彼自身がやった。あまりに完璧な図面だったので、大工の棟梁が手の入れようがないと嘆いたほどだったという。
 父方の祖父は即興の人だった。ある日のこと、どこからかもらってきた古い材木を雨風から守るための物置を作りはじめた。家の前の空き地の四隅にまずは、樹皮を向いただけの節だらけの丸太材を支柱として地面に埋める。その支柱の上に同じ丸太材を梁として載せ、太い針金で結わえ付ける。直方体の枠ができると、屋根を薄い板で葺き、側面に正目、板目、様々な板を張りつけていって壁となす。子供の目の前で、あれよあれよというまに一個の建物ができあがる。にわか造りとはいえ、これを二、三日で立ち上げてしまうのである。まるで手品を見ているようだった。この祖父は、ふだん孫に対しては笑みを絶やさない、文字どおりの好々爺であったが、一念発起して何か事に当たるときには圧倒的な集中力を発揮する人だった。
 母方の祖父は緻密の人だった。宮の森の家は南に大きく開かれていた。広々とした庭は一面青々とした芝に覆われ、季節ごとに色とりどりの花が咲く煉瓦の花壇に囲まれていた。庭の南端の、居間から見て正面に位置するところに葡萄棚があり、その下でジンギスカン鍋を囲むこともあった。その手前に直径一メートルほどのコンクリート製の丸い水盤が埋め込まれていて、金魚が何匹か泳いでいた。葡萄棚のさらに南側の空き地には大きな胡桃の木が立っていて、庭と祖父母の家を見下ろしていた。庭の南西の角には梨の木が二本植えられていた。梨が白い花をつけ、花びらが散り、実が育っていくころになると、祖父は新聞紙で虫除けの袋を何枚も作った。二本の梨の木は文字どおり枝がたわわになるほど実をつけたから、その数だけ袋が必要になる。祖父は居間に新聞紙を広げ、定規で正確に袋の展開図を画き、鋏で切り取っていく。いったん袋の形に折り曲げてから、澱粉を溶かした糊を小さな刷毛で糊代に塗り、ぴったりと貼りつける。出来上がった袋はどれも寸分の狂いなく、梨の実が最大限に育っても破れないように計算されていた。
 父方の祖父はときおり孫の私を街に連れ出した。牛乳配達に使う大きくて頑丈な運搬用の自転車の荷台に私を乗せ、駅近くにあった運送会社のトラック運転手の溜まり場にパンと牛乳を売りに行ったり、あるいは映画館にチャンバラ映画を観に行くのである。あるとき運送会社に連れられて行ったとき、ひとりの若い運転手が青カビの少し生えた餡パンを差し出し、「おい、おやじ、昨日のパンにカビが生えてたぞ」と言った。すると祖父は、突き出されたパンを握ると、「なに、これくらい」とぼそりと答え、青カビの部分にかぶりついた。青年は唖然として立ち去った。
 母方の祖父は芸達者だった。若いころはヴァイオリンも三味線も巧みに弾いたという。達筆でもあった。毎年、正月には端正な筆の年賀状が届いた。母はこの祖父から直接、書も音楽も仕込まれたという。
 父方の祖父は酒に目がなかった。早朝の牛乳配達が終わると、湯沸かし器が連結されたルンペンストーブの前に胡座をかき、ストーブの上で乾き物を焼いたり、近所からいただいた兎や鹿の肉をフライパンでジュウジュウ焼きながら、熱燗をちびちび呑む。徳利は針金を首に巻きつけた一合瓶である。それを寸胴鍋を大きくしたような湯沸かし器の縁に引っかけておく、燗がついたころに引き上げて、新しい一合瓶をまた湯のなかにどぼんと入れる。そして、いい加減に酒が回ると昼まで居眠りするのだった。
 母方の祖父も酒が好きだった。好きなだけでなく、強かった。どれだけ呑んでも崩れないというのが祖母と母の弁であるが、子供の私の記憶に残っているのは、晩酌の儀式である。ちょうど一合入るくらいの徳利にお揃いのお猪口、というよりは小さめのぐい呑みで、正しく二本。それ以上は飲まない。きわめて礼儀正しい酒呑みであった。酒肴は塩辛とか納豆とか、ごくありきたりのものだった。
 この二人の祖父が一緒に酒を酌み交わしているところを一度見たことがある。場所は父方の祖父母の家の居間である。両雄、ルンペンストーブと湯沸かし器を挟んで対座している。というのはやや大げさだが、子供心にもこの二人の祖父はかけ離れた存在だったので、二人が同じ空間にいるということだけで少し緊張したのである。でも、その場の雰囲気はなごやなかものだった。父方の祖父は終始ころころと笑い声をあげていた。母方の祖父も終始にこやかに笑みを浮かべていた。母方の祖父は、父方の祖父のことを、あのひとはいい酒呑みだ、と言っていた。母方の祖母は、あんな酒呑みなら何杯でも飲ましてやりたいね、と言っていたのを記憶している。明治の男二人が酒を酌み交わし、どんな話をしていたのかまでは子供の記憶には残っていない。

 ずいぶん長々と書いたものだが、多少枝葉を切り落として、ほとんどそのまま引き写してある。
 伝えたかったことは、「アナログ的自由」といったようなことである。
 思い出のなかの二人の祖父は、いつも手足を動かし、働いている人として現れる。そうでないときは、お酒を飲んで上機嫌なとき。
 小林秀雄も明治生まれである(明治三十五年、一九〇二年)。一九八三年(昭和五十八年)に亡くなっている。大酒飲みで、しかも飲むと人に絡む酒癖の悪い人だったらしい。
 書く文章も癖が強い。だから、嫌う人は徹底的に嫌う。評論家の文章というものは得てしてそうだ。
 彼の文章を読んでいると、古き良き時代のアナログ的な感じが滲み出ているような気がする。とことん感情移入の人だから、物事を俯瞰的に見るのが得意ではないし、そういう知識人的な物の見方をむしろ嫌った人である。
 鳥の目であるよりは、虫の目、あるいは触覚的。
 彼は若いときに、天才的骨董の目利きとして有名な青山二郎に大きく感化されている。
 彼の仕事を「印象批評」とか「主観批評」というような言い方で揶揄する人がいるが、彼は自分の感じた印象を手放しで信じていたわけではない。自分の印象を客観化することが苦手だった。あるいはそこに自己欺瞞のようなものを見ていた。
 そんなふうに断言するのは、彼の翻訳を分析すると意外と(?)正確で、直訳的なのである。原文に密着していると言ってもいい。
 そのようにして彼は対象を批評する。だから、対象を突き放して客観化することができない。いや、しようとしない。それは愛ではないから、ということになるだろうか。
 子供のころ——そう、二人の祖父がまだ健在だったころ——私の家にはテレビもなければ冷蔵庫も洗濯機もなかった。もちろん電話もなかった。あったのは裸電球、少し遅れて蛍光灯、それに電気アイロンだけ。
 どこの家にもラジオはあった。
 蓄音機で落語を聴いた憶えがある。
 水道は通ってなくて、ポンプで地下水を汲み上げていた。
 暖房は薪ストーブと石炭ストーブだった。
 ひと冬分の石炭を馬車が運んできた。
 馬車を御するオヤジさんが石炭を石炭小屋に移しているあいだ、おとなしく待っている馬に人参をやったことがある。
 秋になると無数の大根が荒縄で縛られ、どの家の軒先にも吊り下げられた。
 今はもう、そういう光景は絶えて見られなくなった。

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