悲願へ 19


 続きです。

 質問が変わり、オリンピックについての著者の考えが問われました。唐突な気もしますが、質問者は、本講演が東京オリンピック前に実施されたこと、そのオリンピックが本来の目的と離れた事業になっていると思ったことから質問に至ったようです。著者曰く「現代に対しては何の価値もない」とのことでした。さらに、オリンピックの精神は既になく、今は単なる金儲け、イベント、アスリートの出世コンテスト、マスコミ的な見世物になっていると辛辣です。また、ヨーロッパ帝国主義から生まれた祭典なので、ルールもヨーロッパ中心で、アジア人、アフリカ人は全部ヨーロッパに合わせろといっているだけとのことでした。この辺りはとても共感出来ました。とはいえ、こうした物言いは、オリンピックに向けて懸命に努力している方々にはちょっと気の毒です。「スポーツが生きている時代というのは、もっと『フェアプレーの精神』とか、つまりアマチュア・スポーツだった。(中略)そのアマチュアリズムというのが生きている時代は、スポーツというのはもっと生き生きしていた。(中略)でも今はもうスポーツ精神は死んだ。金儲けであり、芸能の一分野としての機能になっていると思う。」とありました。個人的には、日本の選手についてはアマチュアリズムが生きていると思っています。いや、海外の選手の一部でよろしくない話を聞くくらいなので、アマチュアリズムが生きている国というのもあると思うのですが、設営する側は著者の言う通りなのかもしれません。

 そんな論調になってくるともう一つ出てくるのがノーベル賞です。「ノーベル賞とオリンピックが二十世紀の西欧思想の宣伝としての祝祭を代表するものなのです。」とありました。そして「もう存在価値もほとんど無くなっている」とも。こちらは、「ノーベル賞を目指して」と躍起になっているのが某国くらいという認識なので、反論はありません。

 オリンピックについては石原都知事が誘致しましたが、当時、東京都は多額の不良債権やら、土地の不良物件を抱えており、オリンピックに託けてそれらを解消しようとしていたということでした。にわかに信じがたいお話ではありますが、石原慎太郎氏が都知事に就任したのは1999年ですから、バブルの不良債権処理がまだまだ終わっていない時期だと思いますので、無い話ではないと思いました。

 続きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?