「インプットもやっぱり大事」という、先日とは逆の話をします

昨日「インプットよりもまずはアウトプットが大事ですよ」というようなことを書いたんですが、今日は一転して逆のことを書こうという気持ちになりました。それは、2つのまるで違う場所から出てきた、まるで違う物事に関して、根っこのところには同じような問題が横たわっているなと感じたからです。

その問題とは、「物語の大事さ」という問題。この場合の「物語」というのは、我々の世界を取り巻く環境に対して、なんらかの説明や解釈与えてくれる言説のことを指します。

昔の人は世界は神の意志の現れのように捉えました。雷が鳴れば神が怒ってるというような。今の人たちはそれを「科学」で読み解きます。これら、どちらも「物語」であり、世界を解釈するための言説ですが、それがものすごく薄くなり、ほとんど喪失してしまっているような状態が現在の社会であるとは、ずいぶん前から言われています。

それが何をもたらすかというと、「物語」に対してウブであればあるほど、実につまらない「物語」に引っかかってしまうということです。大きな声で怒声とともに語られる排他的な民族主義、嘲笑とともに伝播する弱者を排斥する狭隘な選民思想。人は複雑で多層化した「大きな物語」(例えば宗教のような)よりは、でかい声で語られる物語に身を委ねるほうが楽です。

でもそうなると社会的な許容度が低くなり、いずれはそこにいる我々自身にその「狭さ」が襲いかかってくる。それに本来歯止めをかけるのが様々な芸術のはずなんですが、それさえもまた、この分断された社会構造の中では機能不全を起こし、各個で小さな炎を灯すのに精一杯という状況です。僕が村上春樹さんに期待するのは、いま現状で、こうした世界において「物語」をある程度流通させることができる語り手が、日本では彼くらいしかいないように見えるからなんですが、それももうどんどんとしんどい状況になりつつあるような気がしてます。

少し脱線しました。この件に関しては未来は若干暗いと思っているんですが、ただ、改めて「いろいろ知ることは大事だなと」思ったのは、一つは是枝裕和監督の、カンヌ受賞に際してのいざこざに対して、是枝監督自身が書いた文章を読んだからです。

どうやらカンヌ受賞に際して話した文章が、翻訳の翻訳の翻訳の翻訳というよくある「ロスト・イン・トランスレーション」状態にハマった挙げ句、監督の意図とは違う形で政治批判のような文脈として捉えられたということなんですが、この中で監督は是枝監督は、実に丁寧に状況と文脈を解きほぐしながら、「文化」と「文化」、あるいは「言葉」と「言葉」の間を飛び越える時、どうしようもなく発生する意味のゆらぎに関して、素晴らしく誠実に状況を説明されています。さて、ここで是枝監督が「ロスト・イン・トランスレーション」という単語を意図的に使われているのは、もちろん、ソフィア・コッポラがかつて撮った「ロスト・イン・トランスレーション」のことを指していて、この映画自体もまた、都市という記号化された空間の中で、人としての存在性を失うことの辛さや悲しさ、そしてそうした環境の中では相互に理解することさえも難しい状況に陥ることを、二人の異国人の目線を通して淡く描き出しています。つまり、単純に「翻訳過程で失われる」という意味での lost in translationという字義的な意味だけではなくて、映画の描き出しているあの雰囲気を引用して参照するために、あえて「ロストイントランスレーション」という風にカタカナで文中で書かれているんです。

こうしたことは、言葉の意味を多義的に伝えるためのフィクション的な手続きであることは自明なのですが、それが読み手側に機能するためには2つの条件が必要です。まずlost in translationという英語の意味がわかるということ。そしてその英語をタイトルに冠した映画が存在していて、それがまさに今回の是枝監督の陥った状況に対する、ある種のメタファーとして機能していると理解できること。

つまり「2つの知識」が「物語」として、この文章を成立させていることを読み解くことが必要になります。ただ、この2つの知が合流することによって、是枝監督の文章は、ただの主張や説明の域を超えて、自分自身の置かれた状況や映画自体に対する、極めて美しい「注釈」としての機能するようになりますし、それを十全に知った上で読むことができれば、その美しさをより深く理解して楽しむことができるようになります。ただの釈明に見えた文章は、実はより大きな物語を編む「織物(テクスト)」の一部として機能していることが理解できます。

そう、「大きな物語」は、こうした「知っていること」を積み重ねて出会うことができれば、単純で粗悪な物語がもたらす、即興的で刹那的な快楽とは全然違う喜びを我々に与えてくれるんです。

それは今日出会ったもう一つの「物語」にも言えます。それは友人でありカメラ仲間でもある黒田明臣さん https://note.artratio.netツイッター(@crypingraphy)で知った、アメリカのヒップホップミュージシャンChildish GambinoのThis is AmericaというPVについてです。実物をぜひ見てみてください。

アメリカはすごいと、驚嘆しました。ほとんど寒気を覚えるほどの驚愕です。アメリカ自体の抱えている闇に対峙するには、一人のミュージシャンにここまでの覚悟を要求するんだなと。全編に満ち溢れる狂気じみた怒りと絶望、しかしあくまでもスタイリッシュに表現される映像。すべてが最高級にすごいです。

ただ、この曲とPVの素晴らしさは、このPVの作る「物語」が、怒りに任せたプロテストではなく、多層化された「物語」になっていることに目を向けることによってさらに深まります。冒頭のGambinoの踊りは、明らかに19世紀の白人による黒人を真似た「ミンストレル・ショー」から引用した踊りですし(おそらくラスト、白い目と歯が強調されるのもそうでしょう)、途中で出てくるthis is a celly, that's a toolという歌詞は、cellyが携帯電話でtoolは銃を指す隠語(ってほどではないけど)で、黒人が携帯電話を銃を持っていると間違えられえて白人警官に撃ち殺された事件を示唆します。そして途中で挿入される17秒の音楽が途切れる時間は、言わずもがなですが今年2月にフロリダであった高校での乱射事件の被害者の人数と一致したものです。こうして、歴史や文化や言語、社会状況などが多層的に埋め込まれて、この曲とPVは、一層深い「物語」となって、まさにアメリカの闇を打つ鋭い弾丸のように機能しています。

これもまた、大変多くの「知」を必要とします。そしてその「知」が折り重なることで、「物語」が形成されるんですね。

ただ、「だからもっともっと勉強」という話ではないです。「物語」を作る「知」は、単なる「おべんきょう」では絶対身につかなくて、最終的に大事なのは日々身の回り、同時代的に広がるすべてのことに向ける好奇心のようなもの、そして自分で調べて血肉にするという地道な日々によって、自分なりの「物語」の基盤が出来上がっていくんですね。

昨日は「まずはアウトプットを」というような話をしましたが、同時にやはり「インプット」は大事だなあと改めて思った次第です。

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今日もお疲れ様でした
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