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写真に心は写らないならば(あるいは「余白」の生まれる場所についての考察)

よく「写真には心が写る」って言うのですが、僕自身は写真には心は写らないと思っています。あ、誤解なきように最初に言っておきますが、最終的にこの記事は「写真には心が宿る」って話になります。でも、その前に確認したいことがあるので、まずこういう出だしでスタートします。ちなみに「写る」と「宿る」と言葉を変えているのは、単純に分けておいたほうが修辞的にわかりやすいだろうという想定なので、同じ言葉と思ってくださっても全然オッケーです。

話を戻します。そう、写真に心は写らないと思ってるんです。というのは、僕は一応学者なので、まずは事実とそれ以外はきっちりと区分けしたくなるんですね。物理的な面から見ると、写真に写るものはたった一つで「光の情報」だけです。それ以外のモノが「写る」可能性はありません。そもそも「写真に心が写る」って比喩ですもんね。

似たような例で、「言葉には心が宿る」とか「言葉には言霊が宿る」という風に言われるんですが、言葉にも、心や言霊は宿らないと思っています。こちらは写真と違って目に見えないものなので直感的な把握が難しいんですが、言葉は実は言葉そのものでしかないです。記号同士の相互参照の巨大な網目が言葉です。それは自律していて、僕らがそこに入り込む余地なんて、本当はないんですね。

単純に言うと、写真も言葉も「向こうにあるもの」です。僕らの心は基本自分の脳みその殻の中に閉じ込められた単なるゴーストなので、どこにも乗せられないというのが、基本的な了解事項です。

こうした事実を確認した上で改めて、写真にも言葉にも、心は宿る(写る)と思ってます。完全に矛盾した言い方に見えるかも知れませんが、「宿る場所」が違うんです。

写真にしても、言葉にしても、それがなんらかの物理的な行為を伴ってこの世界に放たれて、それが誰かの目や耳に届いた瞬間、表現者と受け取り手の間に「余白」が生まれると思っています。写真や言葉が写し取ったり書ききれなかった部分、でも、写ったり書かれたりしたものから、なんとなく類推できる部分、想像しうる部分。それは毎回固有で、毎回独自の、一対一関係の「余白」です。その描かれなかった余白に「心」が宿る。その心とは、表現者側のテーマだったり撮影意図というものではなく、見ている人がそれを想像したり感じたりした結果できあがるものとしての「心」です。写真に宿る「心」は、撮影者のものではなく、それを見る人が生み出すもの、そんな風に思っています

写真に心が写っているように思えるのは、見ている人が「そのように見るから」というのが、一番正確な表現なんだと思うんです。だから、写真にせよ文章にせよ、「それを見る人」がいない限り、成立しないと思っています。勿論「存在」はできます。でもそれが写真だったり文章だったりという表現として成立するためには、それを受け取る人が必要です。写真も文章もあくまでも「余白」を生み出すためのきっかけ、媒介、メディアに過ぎず、それを作る人と受け取る人の相互の情報交通を促進するためのデバイスだと。そしてその相互の交流を一言で言い表したのが「写真には心が写る」という表現なんじゃないかと思うんですね。

なんでこんなことをわざわざ書いているかと言うと、写真を解放したいからなんですね。何からなんだろう、多分まずは自分から。そこに僕の「心」なんてものは多分写っていない。というか、そこに込めたいと思った心はあるかもしれないけど、それはあくまで僕だけがそう思っているものであって、そんなこととは無関係に見る人には見てほしいなと思っているからです。撮り手の立ち位置は強いからこそ、写真に正解の見方を加えたくないんですね。写真を「自分」から開放したいと思っています

一方、僕は写真の撮り手であると同時に、写真の受け取り手でもあります。多くの写真を僕は「読む」のが大好きです。その人がどういう風にしてその写真を撮るに至ったのか。そこにはその人が辿った人生なり、思いなりが恐らくある。僕はそれを「読む」のが好きなんです。

でももし、撮り手の心が厳密に写真に写っているとするならば、そこに部外者が勝手に物語を読み込んで、それが「不正解」だったら悲しいんですよね。僕は僕なりの見方で、それぞれの写真を受け取りたいわけです。受け取り手として写真を見るなら、写真は撮り手から開放されたほうがハッピーなんじゃないか。そのほうが多分、写真一枚が含むことのできる情報量は増えるはずです。多くの人々の「心」が宿るわけだから。

そうやって写真をどんどん「拓いて」行く先に、写真の新たな存在の有り様が立ち上がってきたのが、恐らくこの10年間なんだろうと思うんです。今流行りの言い方で言うならば、写真は物質的な「モノ」的存在から、人々の生活や思いをとりこむ「コト」的な存在へと変化したわけです。リッチメディアの動画がどんどん出てきているのに、人々はいまだに動かない写真を撮る。それは、元々「光」を刻むだけだった「モノ」としての写真が、多くの人達が共有する世界へ投げ込まれたことで、実は多種多様な「コト」を背負う程大きなキャンパスであることが徐々に分かってきたからじゃないかと。その傾向はこれからもっと強くなっていくはずです。

そう、だからこそ、結論なんですが、「写真に心は写らないけど、心は宿る」んじゃないか。そんな風に思っています。


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