記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

『君たちはどう生きるか』感想と考察 宮崎駿が働きかける「世界の秘密」と「無私の心」

宮崎駿の監督作品『君たちはどう生きるか』が、7月14日に公開された。

公開初日の朝一番に観に行った。宮崎駿が自分自身、そしてわかりあえる者のためだけに、この現代社会に抱いている危機感、渦巻く理不尽を、奇怪かつ珠玉のアニメーション表現に落とし込んだ『不思議の国のアリス』というのが率直な感想だった。

イチ宮崎駿ファンとしてはもちろん堪能し、圧倒された。

一方で、これまでの宮崎駿作品にあった、楽しくて心が躍る、愉快でわかりやすいエンターテイメント性を期待して観に行った人は、難解さに戸惑うだけでなく、生理的におぞましさを覚える表現にのけぞることもあり、つらい時間を強いられたことだろう。

自分もジブリ作品の娯楽性を幼い頃から無邪気に楽しんできた一人であったため、過去作に比べてストレスを強く感じたのは確かだ。情報処理が追いつかず、頭がくらくらした。
ほぼ無言でファミレスに入って話の筋とキャラの行動原理をEVERNOTEで整理してから、翌日の午前に2回めを観に行って、ようやく手放しでウキウキ楽しめたくらいだ。

しかしわかりやすさを廃し、不気味なアニメーションを多く取り入れたのは、決して宮崎駿が衰えたからではない。現代を生きる人々、特に子どもたちのためにあえて「不思議な物語を生み出すへんなじじい」に徹し、意図的にストレスフルにしたものと見ている。

それを、過去の宮崎駿の発言や、影響を受けたとされる児童文学『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)と『失われたものたちの本』(ジョン・コナリー)を補助線に、3つの仮説から紐解くレビュー記事を書いたら1万4000字くらいになってしまい、泣く泣く6000~7000字に削った記事が近日QJWebさんで公開される予定になっている。

ここでは載せきれなかった要素、アニメーション表現への感動と、大叔父と石についての解釈を書き残しておく。

以下、ネタバレめちゃくちゃあるので注意ください。


珠玉の「生きたアニメーション」

今作の醍醐味は、なんといってもアニメーションだった。

空襲のサイレンが響き、母の病院のほうが燃えていると聞いて二階へ向かう際。
駆け上がる階段が眞人の視点から描かれるが、昔の日本家屋に特徴的な、急勾配で狭い階段の圧迫感がリアルに描写され、薄暗さと疾走感から眞人の不安と焦りが伝わってくる。
戦火の中を群衆をかき分け進むが、周囲一人ひとりの顔や肉体はまるで影のように黒くおぼろげに描かれ、眞人の頭にはもはや母のことしかないことがわかる。

頭に自ら石をぶつけた場面も、傷口の大きさや位置を考えるとありえない量の血液が、もりもりドロドロと垂れ落ちる。少年の心に渦巻く悪意、当人にしか感じ得ない生ぬるさが、血の動きから伝わってくる。

眞人の内面に起こっていることが、絵の動き、誇張と省略の中で研ぎ澄まして表現されている。実写では決して共有できない、アニメーションの素晴らしさを痛感した。

リアリズムからもたらされる快楽もすごい。

下駄を脱ぎ捨てるときの足先の蹴り伸ばし、寝間着から着替えるときの着物に袖を通して帯を結ぶ手の動き。
人間が無自覚に行っている一挙一足が、絵の連続で生々しくトレースされており、少年がそこに生きていることを実感した。

人力車に一人ずつ乗り込む場面もすさまじい。
眞人が座るときにまず車が片側へ深く沈み、その後夏子が座るときは、眞人の重心に引っ張られて異なる沈み方をする。物理法則に則った動きをしっかり観察して描き切ったアニメーションで、我々の世界がさまざまな法則で構成されていることを暗に感じ取ってしまう。

こうした生き生きとしたアニメーションは、類まれなる観察眼と、その動きが持つ本質を理解しながら絵と格闘しないと、描くことはなかなか難しい。
宮崎駿とその下に集ったアニメーターたち、職人の仕事に、多くの人が無自覚に胸をときめかせ、愛してきたのがスタジオジブリの作品だった。

監督は82歳だ。その御業がまったく衰えることなく、新作として自分たちのもとに届いたのは実に贅沢なことだとしみじみした。

特に冒頭の階段を駆け上がるシーンは、今は取り壊されてしまった祖父の木造住宅の狭くて急な階段を思い出して切なくなった。眞人がお屋敷に着いたときの、使用人のおばあちゃんの化け物じみた目つき、動きもすごくよくわかる。小さい頃って、しわくちゃの顔で執拗に愛を振りまいてくるおばあちゃんがなんか怖いんだよね。

心の奥底にあった記憶がアニメーションで呼び覚まされるのは素晴らしい体験だった。

大叔父と、石、子孫が意味するもの

今作もっとも難解と言っても過言ではない、「塔の主」こと大叔父と眞人の対話について、個人的な解釈を残しておく。

塔の主は、昔に本の読みすぎでおかしくなってしまい、お屋敷からいつのまにか消えてしまった大叔父だった。机の上で積み木のような石を積み上げ、今にもバランスを崩れそうなところを指でつついて、汗粒を垂らしてなんとか崩れずに済んだのを見守ると、「これで世界は1日は大丈夫だよ」と一息つく。

「たったの1日ですか!?」と驚く眞人に、子孫じゃないとできないからと、眼の前の積み木に「積み木を1つだけ足せ」「世界は穏やかにできる」と、後を継いでくれるよう頼む。が、眞人は「それは木ではありません」「墓の石と同じです」。積み木には悪意がある、として断る。大叔父は「それに気づく者にこそ継いでほしいのだ」と念を押すのだった。

まじで多くの人には、なんのこっちゃだっただろう。

もう一度訪ねたときは、今度は「悪意に染まっていない石」を提示する。全部で13個あり、これを1日1つ積み上げて、新しい世界をつくるがいい、と眞人に再び後継者になるよう頼む。「君の塔を築くのだ」「豊かで平和で美しい世界を作りたまへ」「時間がない、私にはもはやこの塔を支えきれぬ」と。

しかし今後も眞人は、自分はすでに悪意の印がある、と頭の傷跡をみせ、「石には触れない」「元の世界に戻る」と断る。「争いのある世界へ戻るというのか」と念押しされても、ヒミやキリコ、アオサギのような友だちを作るとし、大叔父に「それもよい」「とにかく石を積むのだ」と帰還を許されるのだった。

世界の秘密をのぞき見るアニメーターと、娯楽産業

いろんなメタファーであり、人それぞれの解釈があると思う。
ここで補助線となるのが、宮崎駿のアニメーターという職業に対する価値観と、娯楽産業との歩みだ。

宮崎駿は2013年の引退記者会見で、次のような言葉を残していた。

「実際に監督になる前に、アニメーションというのは世界の秘密を覗き見ることだ。風や人の動きや、いろんな表情や、まなざしや、体の筋肉の動きそのもののなかに世界の秘密があると思える仕事なんです。それがわかった途端に自分の選んだ仕事が非常に奥深くてやるに値する仕事だと思った時期があるんですよね」

この世界のありとあらゆる動きを観察して、物理法則や生理現象、人の感情といったこの世の“秘密”を見つけ、1秒間24枚の絵に落とし込み、本質を人々に伝える。これが1963年、22歳だった宮崎駿が東映動画に入ってから見つけた、アニメーションにおける喜びだった。

しかし同じく1963年に放送開始となった『鉄腕アトム』の大成功から、娯楽産業としてのテレビアニメが一気に増加。一貫して制作数が増え続けた結果、業界では慢性的なアニメーター不足が叫ばれるようになる。

1982年の講演で宮崎駿は、「アニメーションが子どもの生活に必要だろうか」という考えと「ものを作る人間の本能、おもしろいものをつくりたい」という考えとの間で揺れ動いている、と憂いながら、娯楽産業への憎しみを漏らしていた。

「現在アニメーションの業界がどうなっているかを少し説明しますと、テレビ局と広告代理店・出版・玩具メーカー・アニメーター・漫画家、それに映画関係者もそうですね。そういった人たちが全員ひとつの娯楽産業の中に判然と組み込まれているのです」

娯楽産業の中で、大人が露骨にアニメーションの世界を商品化している現実に気づかぬふりをしながら、アニメの世界は”旅立ち”とか”愛”とかいろいろいいながら商売にしている」(アニメーション研究連合主催講演 1982年6月5日 東京高田馬場・早稲田大学構内)

放映時期に間に合わせるために、本来であれば一つ一つ異なるはずである肉体の動きを観察するなんて時間はなくなる。
「走る」んだったらこの動きさえ描いておけば伝わる、と旧来のパターンや記号に頼り、理想の”良質なアニメーション”を作らんとするアニメーターは少なくなっていることに、宮崎駿はさまざまなインタビューで危機感を示している。

「アニメーターは、本来先天的な適性が要求される職業なのだが、今ではいちばん簡単に絵描きになれる手段になってしまった。この十数年間仕事は増加し続け、いつもアニメーターは不足してきた。冗談ではなく、鉛筆で線をひければだれでもいい、という状況が続いてきたのである。アニメーターの数は増加し続け、相対的価値は低下しつづけてきた」(1987年9月14日朝日新聞「アニメーター」)

それでも『魔女の宅急便』はヤマト運輸や日本テレビがスポンサーにつき、テレビCMでの宣伝効果の甲斐あって、配給収入は21.5億円と、前作『となりのトトロ/火垂るの墓』の3倍以上を記録。日本のアニメーション映画の興行記録を更新した。

以降、あらゆるスポンサーやタイアップのもと長編アニメーションを作り続け、大衆娯楽として観客を楽しませる責任も果たし続ける。

石=アニメーション作品、大叔父=宮崎駿、子孫=アニメーター説

こうした経緯を踏まえた場合。

今作のメタファーでまず考えられるのは、「大叔父」は宮崎駿であり、「石の積み木」は自ら作ってきたアニメーション作品であり、「下の世界」並びに「崩れそうな世界」は商業主義に脅かされたアニメーション業界。
「子孫」は自分のように子どもたちのためにこの世は生きるに値することをアニメーションで伝えようとする次世代のアニメーターたち、というケースだ。

「墓の石」はすでにパターン化されたアニメーション表現で、「悪意に染まっていない石」はちゃんと自らの観察によって生み出した新しいアニメーション。
その積み重ねによって、宮崎駿とは違った独自のアニメーター人生を送ってほしい、というやりとりが終盤の対話になる。

さらにインコたちはアニメーションを食い物にしようとする商業主義の業界人たちで、ワラワラはアニメーションを受け取る子どもたち。それを食わざる得なくなってしまったペリカンは、純粋にアニメーションを作る喜びを享受できなくなった同志たち、と解釈できる。

石=無私の心や「人間の力を超えた何か」説

しかしこの解釈だと狭い気がする。
今回の主題歌に米津玄師、アオサギ役に菅田将暉、ヒミ役にあいみょんと、音楽界や俳優界の新星たちを積極的に起用しているのを思うと、「子孫」の対象はもっと広い気がする。

本作のインスパイア元となっている『失われたものたちの本』(ジョン・コナリー)では終盤に1冊の本が生まれ、その物語を読んだ「子供たちはみなそれぞれの意味で、彼の子供になったのです」と書かれる。

つまり「子孫」とは大叔父が作り出したものから、その人生に影響を及ぼす決定的な何かを受け取った、全ての者を指すのではないか。

また宮崎駿は「石」について、1997年のインタビューで次のように触れていた。

人間が貴いと思う”無私”とか”純粋”というこころの動きは、そこらにある石ころにもあるものです。最も人間的なのは”権謀”や”術策”とかで、これは自然にないものです」

「私たちが、貴いと思うものはみな自然界から手に入れたものではないでしょうか。雲間から光が差し込むと”荘厳”な感じを抱き、雲の向こうに何かがいるのではないかと思う。人間の力を超えた何かがある。それは不条理で圧倒的な力を持つ存在なんです。例えば洪水を引き起こす大蛇や竜であったり、深い森には巨大なトラがいるとか……」(『清流』清流出版 1997年8月号より)

これを踏まえると、今作における「石」とは宮崎駿がアニメーター人生を通してのぞいてきた”世界の秘密”であり、宇宙にあるあらゆる自然法則、幼少期に児童文学を通して得た心のゆらぎーー純粋無垢な「人間の力を超えた何か」に思える。
人間特有の”権謀”や”術策”といった悪意とは石と対局に位置するもので、だから私欲にまみれたセキセイインコたちは石の回廊を通ろうとすると痺れるし、眞人も夏子をお母さんと呼んで自らの悪意と決着するまで石に喜ばれなかったのだろう。

そして「石を積む」とはアニメーションに限らず、小説や詩、劇、マンガといった虚構や物語をつくる行為。さらには音楽や写真、絵画といった芸術に加え、学問や科学研究、町工場の技術者でも料理家でも何でも、自分なりの手段で世界の秘密を見つけて「無私の心をもって他者やこの星のために還元する行為」全てを指すのではないか。

そう思うと主題歌『地球儀』の「扉を今開け放つ 秘密を暴くように」「飽き足らず描いていく 地球儀を回すように」という歌詞がいたく染み入る。

「大叔父」は宮崎駿に限らず、自身がアニメーターを志すきっかけとなった『白蛇伝』(1958年)や児童文学の作り手たち。

さらには彼らに「物語」「創造物」のバトンを渡してきた、おとぎ話や神話の作り手、紀元前からいる先人のクリエイターなのかもしれない。とにかく、その人それぞれにとって大きな影響を及ぼす、大きな発見と寄与を成した偉人と捉えていいだろう。

おわりに

「子供時代に得た何かというのは、どういう形で残るのかは定かではないけれど、その子にとって決定的な影響力を持っている」という発言も宮崎駿は残している(月刊誌『こどものとも』/福音館書店/1997年)。

眞人が「下の世界」から持ち帰ってきた石は、「人間の力を超えた何か」の象徴だろう。

私たち観客は劇場のスクリーンから厳しい現実に舞い戻っても、『君たちはどう生きるか』から得たいろんな感覚を忘れず、無私や純粋の心を大切にすれば、生きるに値する秘密や喜びを世界から手に入れられるかもしれない。そんな風に背中を押された気がした。

本人はひたすらに楽しんでいたかもしれないが、82歳にしてこの作品を届けてくれた宮崎駿には、心からおつかれさま、と、ありがとう、をいいたい。

●参考文献
『出発点―1979~1996』宮崎駿/徳間書店/1996年
『折り返し点―1997~2008』宮崎駿/岩波書店/2008年
動画「宮崎駿監督の引退記者会見ノーカット」ANNnewsCH/YouTube/2013年9月6日


この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?