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祖母は家に近所の男の人がやってくるのが嫌だった

こんにちは。先日、僕の祖母の認知症が進んでいること、そして、それに伴って、家族に負担がかかっていることについて書きました。

親族の集まりの際、僕は祖母の隣に座ります。それは、祖母の話の「聞く役」を務めるためです。

昨年から数えると10回以上、祖母は僕に同じ話をしています。

祖母はいつも初めて話をするみたいに「昔、こんなことがあったんよ」と話し始め、

最初は興味深く聞くことができるのですが、回を重ねるごとに、退屈というか、うんざりというか、何とも言えない感情が沸き起こってきます。

どうしたものか。

この感情について、自分なりに分析してみたとき、7対3で負の感情が大きいことに気づきました。

負の感情の大きな部分は「祖母の認知症が進んでいる証拠でもあるので悲しい」というものです。

プラスの感情は「祖母には今でも覚えている体験があるし、それを僕らに伝えたいと思っている」というものです。

僕は、自分自身に沸き起こったこの感情について、理解し、向き合うため、祖母の話を文章にしてみるのはどうだろうか、と考えました。

祖母が伝えたいと考えていることを、そのまま文章にしてみることで、何かわかることがあるかもしれない、と。

記憶を辿る

私は土木事務所で働く父と専業主婦の母の間に生まれた。私が生まれる前、父と母の間に授かった何人かの命は幼くして失われていったらしい。だから、父と母は私が生まれた時、お寺に行って、丈夫な子になるよう、住職さんに名前を授けてもらった。だから、私の名前には難しい漢字が使われている。

父は気前のいい人だった。大きな甕で焼酎を買い、近所の人たちと一緒に晩酌をした。近所の人たちはタダで酒が飲めるから、肴を持って、うちに集まった。毎晩、私の家には大人の男たちが集まって、お酒を飲んでいた。私はそれが、とてもとても嫌だった。

私の祖父は、田川農林学校の一期生だった。今でも卒業証書が残っていて、明治〇〇年卒業って書いてある。その当時、子どもを学校に行かせるのって、大変だったのに、祖父の兄弟たちはみんな学校を出ている。祖父の両親は、本当にすごいし、えらかったんだなと思う。

嫁いだ時、私はお米も炊けなかった。なぜなら、父と母にとても甘やかされていたから。私は二人にとって初めて授かった子どもだった。父と母は忙しかったので、祖母がいつも私の面倒を見てくれた。学校のお迎えにも、授業参観にも、いつも祖母が来てくれた。

私は、いつも祖母と一緒に寝ていた。祖母は私をとても可愛がってくれた。

女学校に進学したのは、二人だけだった。私は、進学したもう一人の子と一緒に、自転車で学校へ通った。

私の自転車は、父が父の仕事場の土木事務所からもらってきたものだった。その自転車には「福岡県」と大きく書かれてあった。

学校へ行く時、どこかの男の子たちが、川の近くの道路で、私が通るのを待っていて、私が通ると「おーい、福岡県!福岡県が通るぞー」と大きな声で言った。とても恥ずかしかった。

もっと違う話を聞いてみたい、と思った。

祖母がしてくれた話は他にもありましたが、今、思い出せるのは、このくらいでした。

書き始めた時、「祖母は」と、三人称で書いていたのですが、途中で、「私は」と、一人称にすべて変更しました。祖母が話してくれているみたいにしたほうが良さそうだったからです。

実際、ここまで書いてみて、もっと違う祖母の話を聞いてみたい、と思いました。

おそらく、祖母が何度もしてくれる話は、祖母の記憶に強く残っていることなのだろうと思います。だから、何度でも繰り返し思い出し、それを人に伝えたくなるのだろう、と。

でも、強く残っている記憶は他にもあるはずで、僕は、もっと祖母の記憶を文章に残したいと思いました。

多分、その記憶の中には、祖母の子である父や叔母が知らないこともあるのだろうと思います。

他の家族にとって、どうなのかはわかりませんが、ここまで書いてみて、僕にとっては、とても良い影響がありました。次の食事会の時も、祖母の隣に座って、ご飯を食べようと思います。



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