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いつも周りとは違っていた僕のこと

僕が初めて ADHDと診断されたのは今からもう十数年前、まだ小学校5年生の頃です。

当時受診のきっかけになったのは、担任の教師のいじめによってうつ症状が出たためでした。

それまでの僕は、学級委員やクラス代表などのとにかく目立つ役割が好きで、自分で言うのも何ですが、成績も優秀な所謂優等生でした。
ただ、協調性というものはまるでなく、思いついたことを誰にも相談せずすぐ行動に移して周りを驚かせることが多かったように思います。

そんな僕を疎ましく思う子もいたのでしょう。
上履きに画鋲が入っていたり、自分で立ち上げたお話し係をやっていた時には、読んで欲しい本の募集箱に悪口を書いた紙を入れられたりしていました。
今思い返せばそれも立派にいじめでしょうが、当時の自分はどこ吹く風で、気にも留めていませんでした。

そんな調子で進級して、5年生。
今度は同級生ではなく、教員にいじめられます。
この教師は、出る杭は打つという性質の方で、とにかく僕のやることなすこと全てが気に入らなかったのだと思います。
一方で、自分の言うことに素直に従い協調性のある子が好きだったようです。

進級してすぐの家庭訪問で「今までの先生のように貴方を贔屓しない」と話す教師の顔は今でも忘れられません。

その言葉通り、この1年間の通知表での評価は今まで取ったことのない成績に落ち込みました。

あまりに辛い日々でした。
辛すぎて、保健室登校になるまでの記憶はほぼありません

今でも覚えているのは、学級会の司会を名乗り出て場をまとめている時に耳元で「ほら、先生いつもこんなに大変なんだよ、分かってくれた?」と言われたこと、
クラスの誰かがその人の琴線に触れる行動を起こした時、怒号が廊下に響くほど怒り狂っていたこと、
一人を吊し上げにしてクラス中の生徒に非難の声を上げさせる反省の場を設けていたことくらいです。

最初は「サボるな、学校に行け」の一点張りだった母も、泣きながら登校している姿や、食事が喉を通らず目に見えて痩せていく僕の姿を見て、ようやく何か変だと気づいた……と、これは後から聞いた話です。

そうして小児精神科を受診した僕は、うつの他にADHDと診断され、治療が始まりました。

その後は教室に行かず、進研ゼミで学習し何とか勉強に追いつけていました。
通っていた保健室にはPCがあり、タイピングの練習にゲームをしたり小説を書いたりして自由に使わせてもらっていました。
保健室の先生は、急にプルタブ集めの箱を制作したり、新しく思いついたゲームのルールブックを作ったり、外に突然花壇を作り出したりの僕の突飛な行動を怒らない先生で「あんな教室には戻らなくていい」と校内で唯一味方でいてくれた先生でした。
当時の保健室は、休み時間の度に同じクラスの生徒が何人も集まり「避難所」のような場所になっていました。
それが異常な状態だと警鐘を鳴らしてくれていたのも先生でした。

進級して6年生は素敵な先生に巡り合いました。

僕が変わっていることが霞むくらい変わった先生で、室内でもいつもサングラスを掛けていて、机を扇状に並べて真ん中にベンチを置き、時々そこに座って授業をする先生でした。
その先生のおかげで、僕は一年間ほぼ休まずに教室に通えました。

それ以降、中学高校と上がっていく中で、僕は段々と自分と他の人との違いを知りました。

忘れ物がとにかく多い。
1日一度では収まらないほど家に忘れてきます。遠足の日のお弁当すら忘れます。

思いついたことはすぐに行動や言葉に出してしまう。
突発的に口をついて出てしまいます。相手が傷つくだろうことも頭で考えるより先に出てしまいます。

正義感が強い。
自分の物差しで間違っていると思ったことは断罪しないと気が済まない。

興味のあることはとことん。
例えばそれが学習に関係のないことでも興味が出たらとことん分かるまで調べないと勉強が手につきませんでした。

じっとしていられない。
1箇所にじっと留まることができません。体育や朝礼での整列という行為が苦痛で仕方ありませんでした。

僕はこれらの極端な個性を、表に出さずに自制することで、周りに協調しなければならないのだと思いました。
ですがそれはとてもストレスが溜まることで、長続きしません。
段々自分の居場所が窮屈になって、学校に通うことが困難になりました。

中学も高校も、1年生の時しかまともに通いませんでした。

ただ、高校では大好きな演劇という部活動の舵取りに夢中になりました
教室には顔を出さないくせに、放課後の部活にはやってきてあれやこれやと楽しく過ごしていました。
部活動の顧問が部活にほぼノータッチだったので、好き勝手に思いつくことができたのが良かったのだと思います。

僕の個性は、人とは少し違うかもしれません。
正確には、集団生活すると違いが出やすい個性を持っています

でも幸運なことに、社会人になっても仲良くしてくれる友達がいて、理解してくれる家族がいて、許容してくれる社会があります。

社会生活に於ける課題は正直まだまだ多いです。
それでも、仲間がいる、ここに存在することが認められている僕はとても幸せ者だなと思えます。
下を向かず、幸せに暮らしていける方法を前向きに探していきたいです。

再診でADHD、ASDを診断された時のことなど、障がいに関する詳しい話はまた別の機会に、何回かに分けて書きたいと思っています。

最後に
僕は小学校5年生当時の担任の教師を恨む気持ちはありません。
性質的に合わない人というのはどうしてもいて、衝突はいつかどこかで起こり得たことです。
僕がADHDであることに早い段階で気付くキッカケをくれたという意味では僕の人生に必要な出会いであったのだと思います。


最後まで読んでいただきありがとうございました。


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標高1,000メートルに咲く紫陽花と風車のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20230143010content-198.html


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