見出し画像

私なりの”生きづらさ”の乗り越え方

「グレーゾーン」という言葉が広がりつつある。ライターとして教育や不登校関連の取材をしていても、この流れは強く感じている。その良さ・悪さ両方あると思うけれど、「発達障害か」「発達障害でないか」の2択にとらわれない受け皿ができたことで救われた人がいるのは事実だと思う。
実は私もそんな1人。これまで、実は「生きづらいな」って感じることが多くて、実際に「そんな感じで生きづらくないですか?」って聞かれたことも何度かある。

いやー、結構生きづらいです。
自分が一番知ってる。

ただ、30代も折り返しを迎え、今は割と快適に暮らせてると思う。自分との付き合い方がわかってきたから、生きづらさも受け流せるし、人と比べなくなったことも大きい。大抵の人は何かしらの生きづらさを抱えているとわかってきたこともあると思う。

私なりの生きづらさの回避法。

※発達障害の診断を受けたことはないが、自分としては注意欠陥の特性が強いなと感じています。
リタリコさんのサイトでよくまとまっているので、参考にぜひ。

「今何をやっている時ですか?」と言われ続けた子ども時代

幼稚園の時からとにかく注意力散漫で、周りのことばかり気にしている子どもだった。誰か泣いている子はいないか、準備ができていない子はいないか、いつも周りをキョロキョロ見回して、できていない子がいたら

「先生!〇〇さんがまだできていません!」

と伝えていた。でも当の本人も全く準備はできておらず、自分の周りはぐちゃぐちゃ。忘れ物や失くし物もしょっちゅうで、部屋も汚い。(これは今もそうです。夫、ごめん。)
年長さんになると、さらに持ち前のお世話好きを発揮して、「私がやる!」と手を挙げて年少さんのところに世話をしに行く。でも、自分の準備はやはり全くできていない。

小学生になってもやっぱりその性格は変わらず、常に周りの動向にアンテナを張ってばかりいたせいで、通知簿にはこう書かれていた。

”いつも「今は何をする時ですか?」と聞いています”

厳しい女性教員からのこのコメント、当時はかなりショックだった。「私はしっかり者である」と信じていたから、小さなプライドがズタズタになったのだ。そしてまだその時は自分のその性質が認められなくて、「私はできる!」と謎の自信を抱いていた。

今となっては、先生よくぞ見てくれていたんだな…と思う。とにかく、じっとしているのが苦手で、周りのことばかり気にしている注意力散漫な子どもだった。

スケジュール詰め詰め 中学〜大学時代

その後中学〜大学時代は、スケジュール帳がいつも詰め詰めで予定いっぱいな人間だった。特に大学時代は、自分に羽が生えたみたいな気持ちになっていたため、顕著だったと思う。
周りに悩んでいる子がいたら気になるから話を聞いてあげたいし、自分が話を聞いてみたい友達もいるし、バイトだってやりたいし、サークルもしたい、大学のゼミも力を入れたい…と、自分のキャパもわからず、予定を入れまくった。
例えば、三連休があったら、まずは午前中は全部バイトを入れて、午後からは全部友達と会う予定を入れて、夜は飲み会やゼミの集まりが入る…というように。そうなると、約束の時間に遅れるのはしょっちゅうで、予定を重ねて入れてしまうことも多かった。

二十歳の時に母の癌がわかり、それからは家事やお見舞いも加わり、心も体もさらに忙しくなった。とにかく自分を休ませないスタイルだったので、予定を入れすぎて、ある一定期間走ったら、急に倒れるループを繰り返した。

朝起きることができない、やる気が出ない、熱が出る、お腹が痛くなる…。

その時々で症状は違うが、急に倒れるのは一種の燃え尽き症候群みたいなものだったんだろうなと思う。でも当時は自分もよくわからないし、周りはもっと理解できなかったと思う。それが原因で、バイトは長く続かない、大学の授業も休みがち、サークルは幽霊部員になり、周りの信頼も失っていった

「ゆかはいつも忙しいもんね」
「やる気があるんだかないんだかわかんないよね」

そう言われることが多かったが、バイトは別のものを見つければいいし、友達もそんな私を受け入れてくれていたから、そこまで不便は感じていなかった。

社会人になって「ストレス性障害」と診断

そんな私は大学を卒業し、念願の記者として働き始めた。夢だった仕事ができて、毎日ワクワクして、胸は希望に溢れていた。一方で、ずっとなりたかったからこそ、記者の仕事の大変さもわかっていたため、恐怖もあった。自分にこなせるのか?と。

記者の仕事には忙しさの天井がなく、いくらでも働けた。当時若かった私にとっては、最高の職場だった。スケジュールがどんどん埋まる、取材したいネタはたくさんあった。新聞も毎日ちゃんと読みたい、署周りも毎日ちゃんとしたい、デイリー取材もどんどんやりたい、飲み会も毎日入ってくる。上司は「やる気がある」と喜んでくれるし、取材先にも感謝された。だからどんどん私は働いた。

一年半ほど走り続けたところ、やはり私は倒れてしまった。朝起きれない、涙がなぜか出続ける、働けない罪悪感からさらに自己嫌悪になり涙が出る…そんなループだった。もう無理だと、心療内科へ行ったところ「ストレス性障害」と診断された。

ちょうどその頃、母の病状が思わしくなかったこともあって、私は仕事を辞めることになった。その時の葛藤はノート3冊くらいに殴るように書き綴られている。ずっと夢だった記者の仕事。理想と現実のはざまで押し潰されそうなこともあったけれど、簡単に手放すことはできなかった。何度も話し合いを重ねて、私は記者を辞めた。今でも辞めたことに後悔はしていない。自分が今を充実させることが、あの時の自分を決断を認めることになると思って生きてきたことも大きいと思う。

「頑張りすぎないこと」を頑張ると楽になった

それから、しばらくは結婚や出産、母の看病にあたる日々だった。幸せなこととつらいことが一気にあった時期で、「働きたい、でも働けない」という葛藤を抱えていた。もう記者を辞めた私は、一生書く仕事はできないと、なぜかそんな絶望感も抱えていた。そんな絶望から救ってくれたのが、「ライター」としての働き方。10年間闘病していた母が亡くなると同時に、私はフリーランスのライターとして働き始めた。「働きたい」と周りに言っていた私の声を受け取ってくれた友達が、声をかけてくれたのだ。

フリーランスの働き方は、自分のペースで働けてとても快適だった。最初は労力に見合わない報酬でも、とにかく仕事を引き受けた。しばらくして、自分が書いた記事が、名前入りで公開されるのを見て涙が出た。やりがいを見つけた私は、どんどん仕事を入れて、相変わらずスケジュールをパツパツにしていった。納期を守るのがかなり苦手なので、カレンダーに赤字で書き入れるのだが、カレンダーが真っ赤だった。

ただ、そんな私に歯止めをかけてくれたのが、家族の存在だった。自分が仕事を詰めつめにしそうなとき、子どもの行事が入る、子どもが風邪をひく、子どもが「公園行きたい」と言う。そんなストッパーこそ、私を頑張りすぎないようにさせてくれる存在だった。フリーランスで5年間働いてみて、私は「頑張りすぎないこと」を頑張れるようになった。

自分を生きやすくするために心がけていること

その後、会社員になってからも頑張りすぎてしまったことは、「どの環境でも"自分らしく"働く」の記事でも書いた。全然懲りてないじゃんって思われるかもしれないけれど、現在も生きやすくなるための方法はアップデート中。だけど、10代、20代の頃よりは格段に今、生きやすくなったと感じている。

特に心がけているのは、
▶︎自分の特性を理解して取り扱い説明書を自分で持つこと
▶︎周りにできるだけ自分の特性を伝えること
の2つ。

自分の特性が一番わかるのは自分だからこそ、そんな自分をちゃんとわかってあげることが大事だと思っている。たとえば、私の場合は整理整頓が苦手で、締め切りを自分の頭で把握するのが難しい。そこで使用しているのが、チャットワークのタスク管理だ。いつまでに何をするかを思いついた時に入れ込む。そうすることで、忘れることが格段に少なくなった。未来の自分は一切信じないことで、今の自分が入れ込んだタスクが自分を救ってくれている。

そして、その特性を自分でわかるだけじゃなくて、周りにもわかってもらうことを心がけている。家族や子どもはもちろん、友達、会社の上司や同僚など、日々濃く関わる人には、「こういう傾向があるけど、悪意はない」「本当はこうしたいけど、どうしてもこうなっちゃう」など、繰り返し伝えるようにしている。「だからわかってよ!」と言うわけではないけれど、伝える努力は怠らない。それが、自分が生きやすくなるし、周りの人も私と付き合いやすいと思うから。そんな感じで今割と快適に毎日過ごすことができている。周りにめちゃくちゃ感謝してます。ありがとう。

*****

ここまで長いnoteをお読みくださり、ありがとうございます。もし、読んだ方も生きづらさの回避法があったら、ぜひ教えてください。多様性の時代、それぞれが発達障害のあるなしではなく、特性やいきやすくなるための説明書を持っていることが大事なのではないかと思います。きっと、誰もが何かしらの生きづらさを抱えていると思うから。そして、ライターとしても、このような「生きづらさの回避法」について、今後もずっと取材していきたいなと思っています!

この記事が参加している募集

多様性を考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?